462もう一つの開戦
バルカ男爵国は退いた。
「え? 撤退ですか?」
エルシィはその報を聞いて、キョトンとした顔で思わず聞き直した。
報告者は隠れてバルカ軍を監視しているねこ耳忍衆の者だ。
「判らないにゃ。
客観的事実として街道を戻り始めたというだけで、完全に撤退するのか、別の道へ向かっているのか、まだ判別つかないにゃ」
そう返事を聞いて、方々の者は先の対デーン国戦を思い出す。
かの国の軍は主街道ではなく寂れた旧街道を使って侵攻して来た。
あるいはバルカ国軍も別ルートからの再侵攻を画策している可能性もある。
「兵隊さんに紛れてもう少し意図を探ることはできませんか?」
「デーン国軍と違ってバルカ国軍は比較的規律あって整然としているにゃ。
何か混乱でもないと潜り込むのは難しいにゃ」
「なるほど、そういうモノですか。
わかりました。無理せず監視を続けてください」
「了解にゃ!」
こうしてねこ耳忍者との虚空モニター越しの交信は一時終了となった。
その上で、エルシィの周りにいる側近たちと、モニターで繋がっている現地の将たちとで「うーん」と唸った。
「スプレンド将軍、サイード正将、どう思いますか?」」
「あの一見で完全に撤退するとは思えません。
再侵攻はあると考えた方がよろしいかと」
エルシィの問いに、スプレンド将軍は難しい顔でそう答えた。
難しい顔なのは、彼自身もあの即時撤退に困惑しているからだろう。
「そもそも彼らの同盟への参加が付き合い程度だった、と考えれば、あのまま撤退してもおかしくはないのでは?
つまり、『侵攻はした』という実績作りの様なもので」
そう意見を挟んだのは宰相役として政府運営という重荷の多くを担うライネリオだ。
言いつつも、彼自信「それはさすがにないだろう」と思っている。
それをわざわざ言うのは、いわゆるアンチテーゼと言うヤツだ。
そうしたライネリオの思惑通り、そのアンチテーゼ案は現場の人間からすぐに否定された。
否定の言葉を出したのは、伏兵を率いてバルカ軍を待っていたサイード正将だ。
「拙者は彼らの動向をそれこそ穴が開くほどの勢いで見てたでござるが、あの進軍が偽りだったとは思えぬ。
少なくとも『必ずひと当てはする』くらいの気合は感じもうした」
「気合、ですか。
現場の武将がそう言われるのであればそうなのでしょうね。
であれば……」
最初から自分も信じていない意見だっただけに、ライネリオはすぐに撤回した。
撤回し、他の可能性を考える。
「あるいはエルシィ様があの場に影響を及ぼした権能や、我らの視線を感じ取ったか」
戦場において危機を第六感的に察知する者はいる。
おおよそ戦いに長く身を置いた古強者が稀に身に付ける能力だが、そんな古強者があの国にいるということか。
または。
「エルシィ様と同じに、神のご加護を得た者がいるのか」
「ははは、まっさかー」
エルシィはそう笑って見せたが、この場で話に参加する者の誰もそれを否定することはできなかった。
なにせ、そこにエルシィという前例がいるのだから。
少しおかしな雰囲気になってしまったところで、空気を換えようとエルシィはワザと元気のよい声を上げながら手を叩いた。
「さて! バルカ国の動向についてはひとまずアントール忍衆の皆さんにお任せして、もう一つの戦場を見てみましょう。
スプレンド将軍とサイード正将はいつでも動けるよう準備だけして、適度に気を緩めてください」
「はっ、適度に気を緩めます」
こうして対バルカ国戦はいったん保留となり、セルテ領主城にいる面々は続いて対トラピア戦を映す虚空モニターへと意識を移した。
こちらは国境を越えた後に退却するなどと言うことはなく、待ち構えるデニス正将率いる兵と、会戦を始めようと対陣を済ませていた。
デニス正将率いるセルテ兵二〇〇に対するのはトラピア子爵国軍三五〇。
同盟中では少ない兵数となるが、かの国ではこれが精いっぱいだった。
「ふん、二〇〇か。勝ったな」
互いに軍を向き合わせた状態で改めてセルテ領軍を数え、トラピア国軍の指揮官であるサイ騎士長はそう鼻を鳴らした。
「騎士長。門外漢の私がこういっては何だが、慢心は良くないのではないか?」
そんなサイ騎士長の隣でやはり騎乗の人となって苦言を呈するのは、この中で彼の唯一の上官となる現トラピア子爵の継嗣ハンノであった。
ハンノはこの戦いには乗り気ではないが、かといって同盟に乗らなければセルテ軍より先に同盟の連中から攻められる可能性もあるので仕方ない。
そういう消極的な意気によってここにいる。
サイ騎士長はそんなハンノを端からバカにしており、「将来的にはオレの傀儡にして国を牛耳るか」くらいに思っていた。
ゆえにそんな存在から意見され、少々苛立ちを隠せなかった。
「安心召されよ次期子爵閣下。
私がいかにヘボであろうとこの兵数差で負けることはない。
閣下は危ないので下がっていてくれて結構」
「あ、ああ、そうか。そうさせてもらうよ」
ハンノもまた彼のそんな心根を読んでいるゆえ、釈然としないモノを抱えつつも言うとおりにする。
彼の様な者の言いなりになるのは業腹ではあるが、そもそも子爵位を継ぐ目のなかった四男坊のハンノには、何のツテも、政治的軍事的な知識もほぼなかった。
であれば、少なくとも自分よりは頼りになりそうなサイ騎士長に任せるしかない。
「お、向こうの指揮官が出て来たな。さてこちらの非をいかに罵ってくれることか」
サイはいかにも楽しそうにそう言いながら、舌戦の為に前へと向かった。
ハンノは「これから殺し合いを始めようというのに、何が楽しいのか」と、理解できないという風に首を振った。
続きは来週の火曜に




