044殿下の決断
エルシィが天守五層の展望窓から見た結果と推測を聞き、カスペル殿下は沈痛な表情を隠すように執務机へ肘をつきながら顔を覆った。
「侵攻軍が推定で五〇〇か……」
そんなカスペル殿下を痛ましそうに眺めるのは、元々城に残っていた側近たちだ。
その中で、エルシィにもお馴染みとなったカスペル殿下の侍従オーケが、ハーブのお茶を用意しながら言う。
「こちらには城がありますから、敵軍が多少多くとも何とかなるのではありませんか?」 この言葉に、執務室にいる者たちの表情は少しだけ希望を見出したように弛緩した。
「確かにそうだろうけど、それではこちらもタダでは済まないだろう。できれば街に被害が無いように防衛したい」
と、カスペル殿下の言葉で再びシュンと下を向いた。
この執務室にいる者は、ほぼ戦争に関しては素人である。
カスペル殿下は支配階級者の嗜みとして、軍事関連を多少は学んではいる。
とはいえ、それは長い課程のうちのまだほんのさわりであり、専門家というほどではない。
そもそも専門家ですら長い平和の中で代替わりを繰り返し、机上兵法しか知らない者ばかりである。
これまで二〇〇年平和であり続けたジズ公国では、それでも充分だったのだ。
だが、その平和はこの日に破られた。
いや、攻め手側であるハイラス伯国は、とっくの昔から準備していたのだろう。
「外交が上手く行っている、と信じ込んでいた我が公国が間抜けだった。ということかもしれない」
苦々し気に、カスペル殿下が顔を上げる。
そこにはもう現状を嘆くだけの少年らしい甘さはなりを潜め、一つの覚悟を持つ男の顔があった。
カスペル殿下は気を落ち着けるように大きく深呼吸をつく。
そして再び各所へ指示を飛ばすために口を開いた。
「防衛計画の見直しが必要だ。各司府の長を集めてくれ」
「仰せのままに」
彼の言葉を聞き、ここにいる侍従たちが慌てて階段を下っていく。
残ったのはカスペル、エルシィの両殿下と、港から共に戻ってきた近衛士、クリストフェルとヘイナルだった。
「出来れば騎士府や近衛府の長から意見を聞きたいところなのだけどね」
部屋に人が少なくなった所でカスペル殿下は苦笑いと共にそうこぼす。
だが騎士府の長であるホーテン卿は港前の防衛についているし、近衛府の長はヨルディス陛下と共にハイラス伯国にいるはずだ。
いや、もしかすればすでにこの世にいないことすらありうる。
知恵を集めるとはいえ内外司府の識者では、軍事的な話がどれだけできるのか。
「いや」
そうした不安を振り払うように、カスペル殿下は声に力を入れる。
そうだ、覚悟を決めたのだ。
この国を守るために。
そして万が一の為に。
「エルシィ」
力を抜き、座り心地の良い椅子の背もたれに身を預けながら、出来る限りの優しい声で妹姫に語り掛ける。
彼の覚悟を汲み、エルシィは神妙な表情で小さく頷いた。
中身にアラフォーの意識があるとはいえ、持っている知識は平和な日本で培った、こことは違う常識である。
そんな小さなエルシィが、この期に及んで何の役に立つのか。
と、思わないでもないが、求められるなら何でもするつもりであった。
すでにこの国に降り立って二ヶ月が過ぎ、エルシィにとっても他人ではなくなっているのだ。
カスペルは良く出来た兄であり、ここにはいないヨルディスは優しい母だった。
港で良くしてくれた船主や漁師たちも、市場で笑い合った農夫たちも、庁舎やそれぞれの現場で語り合った司府の役人たちも、みんな、エルシィの仲間なのだ。
女神を自称する妖かしに「この世界のことを頼んだ」などと言われたからではない。
エルシィにとってこのジズ公国は、「命を懸けて守る」というほどではないにしろ、この期に及べば「身を粉にしてお役に立とう」という程度には、愛着が生まれた場所であった。
「はい、お兄さま。わたくしはどうすればよろしいですか?」
で、あるから、エルシィもまた覚悟を決めた表情で、兄殿下にそう答えた。
カスペル殿下はそんな妹の意思に満足そうに頷く。
「可愛い私の妹姫。君にも重要な任務をお願いするよ」
「お任せくださいお兄さま。このエルシィ、この身に代えて尽くしますとも」
兄妹は互いに大輪の花を咲かせたような笑顔をかわし、そしてここで別れた。
カスペル殿下からの指令を受けたエルシィは、託された品々を抱えながら、まず大公館へと向かった。
「エルシィ様、山へ向かうのではないのですか?」
兄殿下より下された使命とは、その託された品々を持ち、城の裏にそびえる山の祠に向かうことだ。
それなのに、と、ヘイナルは自らの主の後を追いながら訊ねた。
エルシィは足を止め、若い近衛士に振り向く。
「ヘイナル、よく考えてください。大公館にはグーニーがいるではありませんか。彼女を置いていくなど、危険です」
言われ、ヘイナルはハッとした。
もしハイラス兵が城内まで攻め入った場合を考えれば、防衛の人手は天守に集中するだろう。
これは当然であり、両殿下やヨルディス陛下のいない大公館は防衛すべき施設ではなくなるだろう。
そう考えれば、未だ侵略が掛かったことすら連絡が行き届いていないかもしれない大公館は、確かに危険なのだろう。
しかし、とヘイナルはキッと表情を引き締めた。
「気持ちはわかりますが、今はエルシィ様の御身が第一です。グーニーには使いを出し、天守へ避難させれば良いでしょう」
「でも」
そんな近衛士の言に、エルシィは不安げに眉を寄せる。
キャリナや近衛二名に比べるとグーニーとの付き合いはまだ浅い。
グーニーが赴任してからはエルシィが外に出ることが多かったので、内向き仕事を担当するグーニーとは接点が少ないからだ。
というか、エルシィが出掛けるようになった為にグーニーが赴任したわけなので、それは当たり前と言えば当たり前である。
とは言え、彼女がエルシィの配下であることに変わりはない。
それにグーニーはまだ少女と言える年齢だし、同じ侍女でもキャリナに比べると嫋やかな印象が強い。
そんなグーニーを、万が一にも戦火にさらさせたくない。
と、言うのがエルシィの思いだった。
ちなみに港の前線に残してきてしまったキャリナやフレヤについては、それほど心配していない。
フレヤにはホーテン卿を始めとした騎士たちが着いているし、キャリナは側仕えたちの中で年長なのであらゆる面で安定感がある。
万が一が無い訳ではないだろうが、それでも何とか逃げおおせるはずだ、という一種の信頼が、エルシィの中に築かれていた。
「でも」
エルシィはもう一度、反攻しようと口を開きかけ、だが自分に課せられた使命もまた思い出した。
エルシィが今手にしている荷物とは、細長い箱と小箱だ。
これはヨルディス陛下に天守見学させてもらった時に見せられた、ジズ公国の宝である。
小箱に入っているのは二つの国璽。
レビア王国正統後継者の証である王国印と、ジズ公国正統統治者の証である大公印だ。
そして細長い箱の方はと言えば、ジズ公国がまだジズ大公領だった時代に宗主であったレビア王国より授かった元帥杖が収められている。
どれも、このジズ公国を統治する根拠となりうる宝である。
であるからこそ、カスペル殿下は万が一を憂い、愛する妹と共にこれをお山の祠へ隠そうと考えたのだ。
それがわかるから、エルシィも言葉を続けることが出来なくなった。
「わかりました。では申次に言伝を」
「仰せのままに」
うなだれつつ、エルシィは苦渋の中からそう命ずる。
ヘイナルも姫君の心を汲んでそれ以上は何も言わず、ただ粛々と命ぜられた任を全うした。
そして二人は、他に供も連れずにひっそりと、天守の裏に隠された秘密の抜け道から山へと出て行った。
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