431緊急腕木通信
スプレンド将軍旗下の約一五〇〇のセルテ軍をデーン男爵国との国境砦へ送り出してから三時間が経過した。
つまりデーン軍が主要街道から国境を越えてセルテ軍と会敵する予想時刻まであと二時間というところになる。
とはいえ、領主城執務室にいるエルシィに現状で出来ることはなく、彼女はヤキモキしつつもいつも通りに執務を執り行っていた。
いつものキャリナ、ライネリオ、エルシィの三人と補助の何人かという体制で仕事が進む中、届いた様々な書類の束から宰相ライネリオが一冊抜き出す。
「これエドゴル執政官からの報告書。こんなところに紛れて……」
「あー、先日『まだ報告書を見てないのか』って叱られました」
エルシィの家庭教師でもあるクレタ先生が進める官僚促成校の事業も少しずつ軌道に乗り、その修了生が配備されつつあるが、まだ内政現場の混乱は完全に収まったわけではない。
ゆえにこういうことも稀によくあるのだ。
「それでどんなことが書いてあります?」
「例の村の水利問題についてですね」
ザッと斜め読みしてライネリオが答える。
「……結局まだ水が減った原因がわからないので上流に調査を入れたい。許可と人手を回せ。ということのようです」
先にも述べたが内政官は今どこも人手不足なままだし、軍部は言わずもがなである。
エルシィは机に突っ伏しながら悩まし気に声を上げた。
「人手ですかぁ……ちょっと今、どこも足りないんですよねぇ。
予算つけるから現地で雇ってもらうのは可能ですかね?」
「仕方ありませんね。何とか捻出するよう財司に行っておきましょう。
エドゴル執政官へも私から伝えておきます」
「よろしくお願いします」
そんな日常的なやりとりが、非日常の戦時でも当然発生する。
これを処理していかないと人々の生活が回っていかないので滞らせるわけにもいかないのだ。
と、そんな感じでいつもの執務が進む中、ドアをノックする音がする。
この部屋には頻繁にいろんな関係者がやってくるので珍しくもないが、どうもその音に嫌な予感を覚え、エルシィ一同は心構えをするかのようにシンとした。
エルシィの傍らで近衛として立っていたアベルが警戒気味に開ける。
その外にはノックした張本人であるもう一人の近衛ヘイナルと、もう一人、ねこ耳を生やした侍女風の少女がいた。
それはねこ耳忍衆の連絡役であり、エルシィの影の護衛でもあるカエデだ。
二人の深刻そうな表情に、エルシィは手にしていた書類を置いて訊く。
「どうしましたか?」
「それが、デーン国との国境から連絡が届いたと」
「エルシィ様が整えた腕木通信網を伝って来たにゃ。
至急連絡請うとのことにゃ」
腕木通信とは簡単に言えばリレー形式で連絡をつけるための手段である。
各地に点在する山の頂上に変形可能な腕木を付けた塔を建て、その腕木に手旗信号の様な形で連絡を乗せるモノだ。
これを見ることのできる次の山が中継し、それを何度も繰り返し領都まで届けるわけである。
「なんで腕木通信なんて……エルシィに届けるなら虚空モニター越しの通信でもよくないか?」
と、これはアベルの疑問。
だがそれはすぐに出来ないことが分かった。
なぜならエルシィの傍らに、今、国境砦との間に開いているモニターがないからだ。
虚空モニターとは開いている時にのみ相互通信できるものであり、その開線はエルシィから一方的にしか行えないのだ。
つまり次の定時連絡時間までは開線の予定はなかったため、腕木通信という方法で連絡を取ってきた、ということらしい。
「何か緊急案件ですね。
解りました、すぐ開きましょう……『ピクトゥーラ《画像表示》』!」
エルシィもその辺りを察して元帥杖を手にり振るう。
すると彼女の指定したちょうど執務机の後ろ辺りに件の虚空モニターがあらわれた。
エルシィはちょいちょいと画面を操作して、特定の人物名をその中から探して「えい」とタップした。
その名前とは、今、国境砦で差配しているはずのスプレンド将軍だ。
途端にモニターへスプレンド将軍の姿が映し出される。
「将軍、何があったのですか?」
「ああ、エルシィ様。待っていました。
火急の要件にて礼は省略させていただきます」
「それは良いので、何が起こったかを」
「はい、詳しくは彼から」
言ってスプレンド将軍はモニター前を誰かに譲る素振りをした。
そうして映し出されたのは、これまた頭にねこ耳を生やした小男だった。
「あなたはデーン軍監視チームの……カシワバさん」
「は、お名前を憶えていただけているとは恐縮にゃ」
ねこ耳小男は跪いたまま言う。
「それで、何があったのですか?」
「そうですにゃ! 大変ですにゃ。デーン軍がもう国境を越えたですにゃ!」
「……はいぃ!?」
一瞬、そのねこの口から何が飛び出たのか脳が受け付けなかったようで、エルシィは
目を白黒させて飛び上がった。
現在、予想時間より二時間は早い。
この予想時間は基本的に人間の集団が行軍するうえで考えられる平均スピードから割り出しているので、大きな誤差が出るはずが無い。
そう忍衆からの説明を受けていた。
だというのにその説明を覆す事態が発生しているという。
だがそこで気付いた。
デーン国との国境砦にいるスプレンド卿がまだそこにいることだ。
もし本当にデーン国軍が主要街道を通って国境を越えたなら、その国境砦にいる彼はすでに臨戦していなければおかしい。
「もしや、主要街道ではないのですか?」
「はいにゃ。ヤツら、途中から旧街道を通って来たにゃ」
エルシィの問いにねこ耳は即答で頷いた。
「旧街道……それはつまり、想定していなかった近道ということですか?」
「それはノーですにゃ」
どういうことか。
エルシィは矛盾する答えに頭がくらくらする思いだった。
続きは金曜に