430虚空門を通って
「デーン軍、およそ六時間後には主街道より国境を超える見込みにゃ」
そうした報告を虚空モニター越しにエルシィは受けた。
時間は午前の執務が始まってしばらくした頃だ。
報告をもたらしたのは、デーン男爵国に潜み情報を集めていたねこ耳忍衆の一人である。
「ご苦労様です。
では次の報告は五時間後にお願いします」
「了解にゃ」
そうやり取りして、エルシィはモニターの表示を切り、その上で新たなモニターを開く。
その先は将軍府にいる情報官の部屋である。
「スプレンド将軍に取り次ぎを」
「承りました、侯爵閣下!」
突然の通信にも驚いた風が無いのはこれがよくあることであり、また臨戦状態で「いつ何時でも連絡が来ても良いように」と情報官が交代で二四時間詰めているからだ。
ちなみに前はスプレンド卿に直接つないでいたのだが、彼にも生活があるのでこういう取り次ぎ方式になった。
他の司府庁舎ともおおよそ似た形で通信できるようになっている。
程なくして将軍略式正装のスプレンド将軍がやってくる。
この服装は式典などではなく戦場に出る時の鎧を省いた制式装備である。
言うならば野戦服に該当する。
時間が時間なので、彼もすでに彼の仕事にとりかかっていたころなのであろう。
「今朝もご機嫌麗しゅう閣下。スプレンド、お呼びにより御身の前に」
そう言って彼は虚空モニターのエルシィに跪いて挨拶をする。
「おはようございますスプレンド卿。ご機嫌が麗しいかは置いておいて、さっそくお仕事の話です」
「承知しました」
将軍は苦笑いをこぼしながら立ち上がり、それ以上は余計なことを言わずにエルシィの次の言葉を待つ。
軽口を叩いている場合ではないのは彼も重々承知している。
「デーン男爵国の軍がおおよそ六時間後には主街道から国境を超えるだろうとの報告がありました。
将軍は出陣の準備を」
「いよいよですね。
農民徴兵を行った割には早かったように思います」
「それだけ本気なのでしょう。その分、こちらも本気で対処をお願いしますね」
「もちろんです。……まぁ農民相手ではいささか気がひけますが、矛を向けるというなら是非もなし」
スプレンド将軍が職業軍人として当然な回答をすると、エルシィは大きく頷いてから横を向いて大きなため息をつく。
「デーン男爵はこれで農家の方がお仕事出来なくなったら戦後の立て直しをどうするつもりなのでしょうね」
「もう戦後の心配ですか。お気が早い」
「そうは言いますけど、ホントは戦争なんかしてる場合じゃないんですよ。
今年は飢饉的な不作が起こるかもしれないというのに」
エルシィはぷんすかと言いながら執務机をパンパン叩いた。
これにスプレンド将軍はまた苦笑いをこぼすしかなかった。
内政家ではない彼にとって、それは口出しできようもない内容だったからだ。
エルシィもそれが解っていて愚痴を言っている。
せいぜいそれだけ親しい間柄であると飲み込んでおこう。
「それでスプレンド将軍」
「はい、なんでしょう?」
ひとしきり、ぷんすかが収まったところでエルシィは気持ちを切り替えて問いを切り出す。
「将軍は先に移動して国境砦付近でデーン軍を迎え撃つのと、デーン軍が国境を越えてから移動するの、どっちがやりやすいですか?」
「ふむ……」
問われ、スプレンド卿は少し考えた。
考え、彼は彼の意見を口にする。
「来るのが判っているなら先に行って出迎える方が礼儀というものでしょうね」
もちろん礼儀云々は冗談だが、つまり先に行って展開している方がいいだろうという話ある。
であれば、とエルシィは席から立ち上がり右手を振るった。。
「では将軍は今よりすぐ招集を行ってください。
整い次第、国境砦へゲートを開きます」
「承知。では御前を失礼いたします」
スプレンド将軍は再び恭しく敬礼を挙げ、マントを翻すようにシャープな回れ右をかますと通信用の部屋を出て行った。
さて、それからおよそ一時間後には一五〇〇の兵が領主城中庭に揃った。
どれもこれから始まるだろう戦いにやる気の顔だ。
「壮行会であれだけ美味い物を食べさせてもらったんだ
これで手を抜くようじゃ軍人の面目が立たん」
「今次戦争が無事勝利で終わるなら、また馳走してもらえるらしいぞ?」
「マジか!? 今次ってデーン軍を押し返せばいいのか?」
「バカ。今次って言ったらそれも含めて全部だ」
「くぅ、これは生き延びる理由がまた一つ増えたな」
そんな軽口も聞こえてきたが、エルシィが前の壇上に姿を現すと水を打ったように静かになった。
「侯爵閣下よりお言葉がある。傾聴!」
スプレンド将軍の声が響くと、皆が踵を揃えて略式の敬礼を挙げる。
そんな様子をエルシィはまんべんなく見渡し、それから声を張り上げた。
「みなさん。これに及んで私から言うことは多くありません。
敵軍を押し返し、生きて帰ってください。以上です!」
その後、再びスプレンド将軍が前に出る。
「これより侯爵閣下が神より授かりし権能によって門を開く!
我々はその門をくぐることで遠く離れた国境砦まで一瞬でたどり着くことができる。
敵は行軍により少なからず疲弊しているだろうし、我らの方が数も多い。
これらの有利をもって負けるなど許されない!
よいか。我らが侯爵閣下に捧げるのは勝利のみ!」
「勝利のみ!」
「侯爵閣下に勝利を!」
自然とシュプレヒコールが上がった。
その間にエルシィは一五〇〇の兵がくぐれるよう、国境砦につないだ虚空モニターを大きくして広場前に設置した。
光り輝くこの虚空門を前にして、兵たちの多くは尻込みするように慄いた。
「これでどこにでも大軍を運べるなど、デーン軍には同情しそうだよ」
「砦兵を削減すると聞いた時にはどういうつもりかと思ったが、これがあるなら確かに必要もない」
正将としてスプレンド将軍の両脇に控えていたデニスとサイードもまた、驚きに目を見開いてそう言った。
こうして彼らはデーン国軍を迎え撃つべく出陣した。
続きは来週の火曜に