043防衛準備
馬車と違い、駆ける馬のスピードは速い。
いや、馬車が思いのほか遅い、と言った方が良いかもしれない。
現代の機械文明社会に生きていると、馬車と言えば自動車の代替と思いがちである。
だが、その車を引くのは馬という生物だ。
生き物である以上、機械である自動車エンジンの耐久力は無いし持久力も敵わない。
すなわち、瞬間スピードは高くとも、馬車という重荷を引いている状態ではすぐバテてしまうのだ。
比べて、単騎の馬は乗せている荷物が少ない分、スピードも上げられるしスタミナもいくらか持つ。
つまり、エルシィたちを乗せた馬は、行きとは違い一〇分程度で城まで戻った。
まぁそれでも、乗馬人数がいつもより多いのと、より速く走れとの鞭が入ったため、どちらの馬も城に着いて騎手たちを下ろした途端に、ドォと音を立てて倒れた。
激しく乱れた息が痛々しいが、それを気遣っている暇はない。
カスペル殿下とエルシィ、そして二人の近衛士は、馬の世話を係りの者に任せ、速足で天守へと向かった。
「騎士府へ走れ。副長は天守へ、残りの者は急ぎ出撃準備だと伝えろ」
道中、カスペル殿下は申次を捉まえて指示を飛ばす。
飛ばしながらも、彼は難しい顔で考えながら脚を動かした。
「お兄さま、何か懸念が?」
その深刻な表情に、戦争に対する忌避感以上のものを感じ、エルシィはソロソロと控えめにカスペル殿下の顔を覗き込んだ。
それに気づき、カスペル殿下も眉間のシワをもみほぐしながら、出来る限り優しい声を整えて妹へ顔を向ける。
「ああ、騎士と警士がどれくらい動かせるかと思ってね。いや、エルシィは何も心配することは無い」
早口にそう結んで目を逸らした兄殿下に、エルシィもまた難しい顔になった。
この様子だと、全軍集めるのは無理なのだろう。
現在のジズ公国の全軍と言えば、騎士府から正騎士と従騎士で一〇四名、警士府の歩兵が四〇〇名だ。
しかし、騎士の約半数は軍船に乗ってヨルディス陛下の近衛士たちと共にハイラス伯国へ行っているというし、警士の多くも、警備以外の任についている。
また非番の者もいるだろう。
この緊急招集で、どれだけの兵が集まることか。
また、その兵数で、ハイラス兵を上回ることが出来るだろうか。
そんなことをつらつらと考えているうちに、一行は天守へと辿り着く。
そのまま一気に階段を上るものだから、エルシィはすっかり息を切らしてグロッキー寸前だった。
そんな感じで四層の大公執務室へたどり着いたので、執務室の座り心地の良い席は兄殿下よりエルシィへと譲られる。
大公執務室の最も上座となる席にエルシィが息も絶え絶えという態で着き、その脇にカスペル殿下が立った。
この時、ちょうど騎士府から壮年の副長がやって来た。
果たして、この配置が彼の目にどう映ったのか。
銀髪をオールバックにした細目の副長は、一瞬だけ目を見開いて驚いた。
「来たかヴァーゲイト。話は聞いているか?」
そんな様子にお構いなく、カスペル殿下はすぐさま話を始める。
「はっ。ハイラス伯国の紋を掲げた歩兵が上陸し、我らが騎士と近衛士が数名で防戦を行っていると」
すでに申次や戻った役人などから情報を得ているようで、ヴァーゲイトと呼ばれた副長閣下は、畏まってカスペル殿下に知っている話を簡潔に述べた。
カスペル殿下は重々しく頷いて、言葉を続ける。
「ではやることは解かるな。至急、招集できた者で防衛隊を編成し港へ迎え。きっとホーテン卿が苦労しているぞ」
「ご下命、拝領いたします。防衛隊を編成し、港前で防衛線を構築します。これ以上、我が国を侵犯させません」
「よろしい。行け!」
気合の入った返事を受け、カスペル殿下は年配の騎士へと命を下した。
ヴァーゲイト副長はキビキビとかかとを揃えて敬礼を捧げ、すぐさま身を翻して退出する。
彼はこのまま、騎士や警士たちを率いて出撃することになるのだろう。
これらを見届け、エルシィの息もようやっと整ってきた。
「お兄さま、わたくし、五層から港の様子をうかがってまいります」
「おお、そうか。それは助かる。ぜひ頼むよ」
他の指示を周りの者たちに飛ばす中、エルシィのそんな申し出を聞いてカスペル殿下はホッと顔を綻ばせて頷いた。
実際のところ、港では不穏な様子を察してすぐ踵を返したため、攻め入って来たハイラス兵の全容をまだよく知らないのだ。
遠目からでもいくらかその様子が知れれば、今後の動きの参考になるだろう。
「お任せください、お兄さま」
エルシィはニパっと笑顔を浮かべ、大きく座り心地の良い執務椅子から飛び降りた。
飛び降り、すぐさま椅子の後ろに掲げられている大鳳旗を振り返り、その裏の隠し扉へと向かうのだった。
扉をくぐり、その先の薄暗い階段をえっちらおっちらと五層へ上がる。
窓から覗く空は先ほどに比べてより一層暗く、まだ雨が降り出していないのが不思議ですらあった。
「さてさて、港の様子はどうかな?」
ここにいるのはエルシィだけなので、もうお姫様ぶる必要もない。
その為か、ここへきて幾らか力が抜け、独り言の声も幾分低い。
エルシィは汗と埃で汚れたワンピースを無造作に払ってから、港を望む窓へ寄って見下ろした。
海や港を一望できるとは言え、さすがに遠いのでそこに集まっている人などはゴマ粒のようだ。
これではハイラス兵を数えるのも容易ではない。
エルシィは「ふむ」としばし考えてから、右コブシを軽く隙間が出来る程度に握り、そこに出来た小さな穴を覗き込んだ。
その穴の向こうは当然ながら、窓の向こうの港へ向けられている。
これは簡易的なピンホール眼鏡である。
まぁこれで「無いよりはマシ」という程度には見えるようになった。
ゴマ粒の様なハイラス歩兵が、四角く整列しているのが解る。
「これなら数えやすいね」
エルシィは「有難くも無いけど」と続けながら、整列する歩兵の列を頭の中でさらに小さく区切ってから、ゴマ粒を慎重に数える。
そしてその区画が何個あるかを見極めて、掛け算するのだ。
そうすればおおよその全体数は知ることが出来よう。
エルシィはこうして導き出された重装歩兵の数に、眉をしかめつつもホッとした。
その数、約二五〇名。
これなら騎士と警士をかき集め、地の利を生かせば撃退できない数ではないだろう。
それにしても、この数でジズ公国を攻め落とせると思ったのだろうか。
奇襲からの電撃戦が成功すればあるいは、という可能性にかけているのだろうか。
だが、そう呆れながらもホッとしかけたところでエルシィは気づいた。
遠く、東の水平線を越えて、さらに数隻の船が向かってくることに。
「ああ、まだ増えるのか」
合点がいった、と溜息を吐き、さらによく見る。
大きな輸送船のはずが港の人々と同じ様なゴマ粒に見える。
そのゴマ粒輸送船がさらに五隻。
すでに入港済みのイルマタル号と四隻の輸送船から二五〇の歩兵がまろび出たことを考えれば、一隻に五〇の兵が乗っている計算になる。
するともう二五〇増えるのか。
現状のジズ公国全軍を集めても、兵数で超えらてしまう。
「マズいなぁ、まさかこれ負けイベントじゃないよね?」
エルシィは誰に言うでもなく呟く。
思い浮かべるのは、子供のころ遊んだ数々のコンピュータゲームだ。
その中でもRPGなどでは、物語の演出の為に「必ず負ける戦い」というのが存在する。
特に物語のプロローグにおいて、主人公に戦う意味を持たせるためにこの演出が使われることもままあるのだ。
未だゲームの世界であることを半分くらい信じているエルシィは、そうした不穏な予感を飲み込みつつ、カスペル殿下に現状を伝えるため、急ぎ階段を下りた。
次回は金曜日を予定しております