414春の訪れ
春が来た。
エルシィが泉下へと旅立ち、その身体を上島丈二が引き継ぎちょうど一年が過ぎた。
その新生一周年を迎えたエルシィは本貫地であるジズリオ島ジズ公国を離れ、今や多くの貴族領を差配する立場となった。
その一つ、最も大きな領土を有するセルテ侯爵領の主城にて、エルシィは一人の家臣、それと連れの女性と向き合っていた。
「こうして直接お会いするのは何カ月ぶりでしょうかね。
新年の挨拶もエルシィ様の権能頼りという不義理ぶり、どうかお許しください」
主城執務室の応接コーナーにて、エルシィと対面の席でこう恐縮してみせるのは、現在、ハイラス伯爵領を差配する立場にあるチョビ髭中年クーネルだ。
その立場からするとジズ公爵領外地鎮守府において、エルシィに次ぐ二番目の地位である。
とは言え、彼は貫録というモノを身に着けた様子はないし、本人の意識の上でも未だに将軍府からの出向、つまりスプレンド将軍の部下くらいの気でいる。
「いえいえ、お互い忙しい身ですから仕方がありません。
こちらこそクーネルさんの献身に報いる方法はないかと常々心を痛めるばかりです。
どうですか、そろそろ伯爵などに……」
「府君という地位ですら身に余る光栄にて、まだまだエルシィ様の家臣でいさせてください」
「あ、はい。ではそのように」
エルシィはエルシィで、自分の仕事を出来るだけ分けたいという気持ちから、このクーネルにそのままハイラス伯の地位を譲ってしまいたいと思っている。
いるのだが、この通りいつも固辞されてしまうのだ。
ちなみに府君というのはそもそも大きな街を治める太守などに対する尊称なのだが、ハイラス領のいくつかの主要な街にはすでに太守がいる為、その上の地位という意味で苦し紛れにひねり出した職位である。
もちろんセルテ領にもいくつか主要な街は存在するし、それぞれに太守がいるが、府君という官位にいるのはこの世界においてクーネルただ一人だろう。
「と、まぁいつもの定型なあいさつはここまでにして、少し世間話でもしましょうか」
にこやかに責任の押し付け合いでバチバチ火花を散らしていた両者だったが、あきらめたエルシィからため息交じりにそんな言葉が出る。
「世間話、ですか」
やっと諦めたか、という気持ちと共に、クーネルは肩の力を抜いて首を傾げた。
「とはいえ、指示を仰ぎたい案件についての報告や相談は普段からしておりますし……、愚痴であれば五万と聞かせて差し上げたいところですがね?」
「それはのーせんきゅーです」
アタシが忙しいのはアンタのせいですよ、という風なジロリとした目でクーネルから見られ、エルシィはビシッと手のひらを差し向けてお断りのポーズである。
「もっとこう、個人的に嬉しかったこと、楽しかったことはないのですか」
「ああ、そういう。でしたら……」
クーネルは何でもないことを思いついたように小さくハッとして、その上で発言を待つエルシィから目を逸らして隣を見る。
隣には先ほどから無言でそのやりとりを聞いているだけのメガネをかけた知的で真面目そうな女性が静かに座っている。
その女性はクーネルの視線に気づくと、ニコリと口元で笑った。
確かハイラス領の府君にクーネルが任命されてから付いた秘書というか副官というか、そういう感じの人だったか。
自己紹介もされてもないし個人的な会話もしたことないので名前は知らないけど。
と、エルシィはこの二人の無言のやり取りに興味を抱いた。
「ええとですね。最近、結婚いたしまして」
「……はい?」
思いもよらない発言が飛び出したので、エルシィは手にしていたハーブティの杯を取り落とした。
お茶もこぼれずカップも壊れなかったのは、ひとえに侍女見習いのねこ耳忍者カエデがすかさずフォローしたからである。
驚きはしたがまぁ納得と言えば納得である。
これまで仕事が忙しいことを言い訳に独身を貫いてきたクーネルであったが、府君となりその忙しい中で公私にわたり支えてくれたのがこの女性、ナサレナだったそうな。
絆されたのがクーネルだったのかナサレナだったのは判らないが。
「それはおめでとうございます。
っていうか結婚前に報告してくださいよ。お祝いしそびれたじゃないですか」
ぶーと顔を膨らませてエルシィが抗議するが、クーネルは苦笑いでごまかした。
むしろ大事にされそうな気がしてワザと報告しなかったのだ。
とは言え、である。
「クーネル様、エルシィ様の主要な家臣の一人であるあなたは、そうした進退について報告すべきかと存じますが」
と、これはエルシィの傍らでそっと立っていた侍女頭キャリナの言である。
これらについて明文化された法があるわけではないが、貴族下にいる太守などに準ずるような地位の者の冠婚葬祭や襲名引退などについては、上長たる貴族に報告相談するのが習わしとされている。
クーネルは先にも述べた通り自分の地位を低く見る傾向があるため、これには思い至らなかった。
というか見ないようにしていた面があり、この指摘にはバツが悪そうな顔でこの侍女から目を逸らした。
「まぁ過ぎたことは仕方ありませんしお祝いしそびれたのは残念ですが、その分、お子さんが生まれた時には盛大にやりましょう」
「親の様なこと言わんでくださいよ」
これにはクーネルもナサレナ女史も苦笑いだった。
「ところでクーネルさんのおめでたい話ついでで申し訳ありませんが、キャリナ?」
「はい、なんでしょう」
と、エルシィはクリンと首を回して自らの侍女を顧みる。
クーネルはすでに中年だし、ナサレナ女史はそこまでいかなくとも二十代半ばくらいの歳である。
どっちもこの世間で言えばかなり晩婚の類だ。
そこ行くとキャリナもまたおおよそ二十歳。
この世界で言えば適齢期を少し過ぎているあたりだろう。
こう思うとおっさんらしい余計なおせっかい魂が首をもたげる。
「キャリナはこういう話無いのですか?」
まぁ、これは我々の現代社会で言ったらセクハラに該当するだろう。
が、ここではそんな概念も無ければ、同性同士の会話である。
ハラスメントであろうはずもない。
キャリナもそんな意識はないので涼しい顔で一言だけ「いえ、ありませんね」と返した。
彼女はともすればエルシィに侍るため、一生独身でも構わないくらいに思っているわけだが、さすがに重いのでそこまでは口にしない。
そんな気持ちを知ってか知らずか、エルシィはさらに続けた。
「ヘイナルとかどうですか?」
「え、俺ですか!?」
エルシィの口から飛び出した自分の名前に仰天してつい声を上げてしまったのは、エルシィの近衛頭であるヘイナルだ。
この中でキャリナと付き合いが長いのは彼くらいだろう。
だがキャリナは特に何も感じていない平坦な視線をちらりとヘイナルに向けてから、ため息交じりにこういった。
「有り無しで言えば、無しです。そういう方向性の魅力を感じません」
「俺も考えたことないけど、さすがに酷くない!?」
ヘイナルにいらぬダメージを与えてしまったことを反省しつつ、エルシィは「この話題は二度とすまい」と硬く心に誓った。
5章開始します
続きは来週の火曜に