040イルマタル号の帰還(後)
大公館を出て天守へと向かう。
二人が朝食を中断したほどの時間帯なので、行く道は出勤途中の役人たちの姿が多く見られた。
いつもならカスペル殿下もエルシィもこの時間が過ぎてからの登庁となるので、通勤シーンを見ることは無い。
それは通勤する役人たちからしても同様で、側仕えたちを引き連れて足早に進んでゆく公子兄妹の行列に、皆が驚きをもって道を開けるように端へと寄って畏まった。
そんな中をカスペルは堂々と通り過ぎ、中身が庶民出のエルシィはペコペコと小さなお辞儀を繰り返しながら後をついて行く。
しばらく歩けば、すぐ天守にたどり着いた。
大公館と天守は、それこそ目と鼻の先にあるのだ。
ともかく、二人と側仕えたちは入庁の手続きを手早く済ませ、仕事の準備をしている役人たちを尻目に階段へと向かう。
どんどん階段を上り、エルシィが息を切らし始めたころ、三層にある外司府の執務室へと辿り着いた。
カスペル殿下の侍従がドアをノックして、公子兄妹の到着を室内に告げる。
するとすぐに返事があり、内側から扉が開かれた。
内部には数人の役人と、おそらく外司府の長であろう、貫禄のあるカイゼル髭を生やした壮年の男がいた。
彼らはカスペル殿下の姿を見止めると、すぐその場で跪く。
「お待ちしておりました両殿下」
代表して外司府長が口を開くとカスペル殿下は鷹揚に頷き、そこから簡略化した一通りの挨拶口上が始まった。
それを終えるとカスペル殿下はすぐに、外司府訪問の用件を告げる。
「うむ、早くからすまない。
こちらにヨルディス陛下帰還の報は入っているか聞きたかったのだ」
「陛下の帰還、でございますか?」
ところが、これを聞いた外司府長もまた、困惑気味に言葉を繰り返した。
「その様子だと入っていないようだな。ハイラス伯国からの情報はどうだ?」
「は、ヨルディス陛下の出立の数日後に、到着の報は入っております。それ以降は特に何も」
続けざまに問うカスペル殿下の様子にタジタジになりつつ、外司府長はカイゼル髭を神経質に撫でながら答える。
この返答に、カスペル殿下は不機嫌そうな表情を浮かべた。
「その後、何も? 定期連絡など定めていないのか?」
「はい、通常ならあるのですが、今回は連絡が途絶えてございます。おそらく、向こうも何かと忙しいのだろうと」
見る見るうちに不機嫌さを増すカスペル殿下に顔に、外司府長は己の失態を今更に思い知って恐縮する。
「カスペル殿下……?」
いったい何が起こっているのか、それすらも解らないらしい外司府の面々に舌打ちをし、カスペルはすぐさま踵を翻して階段室へと戻る。
目指すはその上、大公執務室だ。
「エルシィ、私は嫌な予感がするよ」
「それは奇遇ですね。わたくしもです」
なぜか沸き起こる焦燥感を押し殺しながら呟く兄殿下に、エルシィは同意しながら後を追う。
カスペル殿下とエルシィは階段を上がり、侍従たちが開いた扉をくぐり大公執務室へと入る。
そしてそのまま通り過ぎるように大鳳の旗の向こうにある隠し扉へと進んだ。
その先は、天守五層へ続く階段だ。
側仕えたちを大公執務室に置き去りにし、兄妹は薄暗い階段から五層へ上がる。
上がれば、透明度の高いガラスの窓から覗くどんよりとした雲が見えた。
雨はまだ降り出していないが、雲を見ればいつ天気が変わってもおかしくない。
二人はすぐに海を臨む窓へと寄り、そこから接近する母の船を探した。
大公陛下御座船「イルマタル号」は、二人の目にすぐ見つかった。
ここからではミニチュア模型の様に小さいが、それでも漁船などに比べればひときわ大きく、また特徴的な三本マストは目立つのだ。
「大公旗が出ている。母上は無事のようだな」
イルマタル号の無事を確認し、カスペル殿下はホッと息を吐く。
が、エルシィはそれに続かず、怪訝そうに眉を寄せたまま海を見続けた。
「大公旗とは何ですか?」
その問いには、すぐ微笑ましそうに妹を見下ろしたカスペルの口から答えが返る。
「大鳳旗の下に三角の旗があるだろう? あれが大公旗だよ」
言われて見れば、確かに赤と白で彩られた三角の旗が風になびいている。
「大公陛下がおわす場所に翻すのが大公旗。逆に言えば、あれが翻っているうちは大公陛下が健在である証拠でもあるんだ」
なるほど、と頷きつつも、エルシィの悪い予感は晴れなかった。
「お兄さま、船の数が多くありませんか?」
「……確かに」
懸念を述べるエルシィに、カスペル殿下もまた眉を上げる。
大公執務室の物と同じ大鳳旗を翻すイルマタル号の周りには、計四隻の船が随伴している。
そのうちの二隻はひと月前にも見た護衛の戦船だが、後の二隻は始めて見る船だ。
どれもイルマタル号より一回り小さい程度の、輸送船のように見える。
だが、カスペル殿下は一度弛緩した気分のままに、気楽そうに答えた。
「ずいぶんとお土産が多いようだね。ハイラス伯国じゃ、よほど歓迎されたみたいだ」
お兄さまはすっかり安心してしまわれた様子だ。
エルシィは困ったように兄殿下を見上げ、そして再び海上の船団へ目を向ける。
この世界で生まれ育ったカスペル殿下の見解は、ある程度、信用が置けるだろう。
だが彼やこの国の人々は平時に生まれ、平時に育った人たちだ。
もし、今回のイルマルタ号帰還が、非常の事態であったなら、果たして彼らはどれだけ当てになるだろうか。
そんなエルシィの心に引っかかる懸念の根拠はと言えば、「ついに事が起こるのではないか?」という薄っすらとした予感である。
この予感が正しいなら、などと疑いを持って見れば、悠々と進む船も何やらオドロオドロしく見えてくる。
空を覆う暗雲も雰囲気づくりを手伝っているのだろうか。
だが、そんな曇ったエルシィの気持ちとは裏腹に、何の疑いも無いという晴れやかな表情に切り替わったカスペル殿下が声高に言う。
「さぁ、母上を出迎えなくては。もう入港が始まるよ」
むぅ、お兄さまの平和ボケめ!
エルシィは少しの憤りと大きな諦観を込めて溜息を吐き、一転慌ただしくこの階層から出ていこうとする兄殿下に従った。
さて、問題がなかった場合に滞りなく母上を出迎えつつも、問題があった時の為にさりげなく備えねばならない。
どうすればいいか。
エルシィは兄殿下を追う足と共に頭の回転速度を上げ、動かせそうな戦力を指折り数えた。
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