399南部の取りまとめ
「というところで南部農地の方針まとめ」
一通り大まかな話が終わったところで、エルシィはパッと顔を上げて側近衆の方を振り向いた。
だがその視線はキャリナやヘイナルを見ていない。
見ているのはそのまた後ろでこっそりと話を聞いていただけの中年官吏だ。
「……はい、マルカジェリさんどうぞ」
「え、は、はいぃ?」
しょぼくれた顔が一気に驚きと焦りに染まり、手にしていたメモ紙をわたわたと取り落としそうになる。
そう、これまで一言も発せずついてきていたので一緒に来たはずのキャリナたちですらその存在を忘れかけていた、農村整理課長マルカジェリ氏である。
彼はしばらくわたわたしていたが、その行為もまた彼なりの儀式なのであろう。
一通り手元のメモの整理が終わると顔つきが少しだけ精悍になった。
「は、失礼しました。それでは僭越ながら南部農地の今後の方針についてまとめさせていただきます」
まずそう入り、マルカジェリ氏は言葉を続ける。
「大方針として新季の耕作は侯爵閣下が示されました二期作あるいは二毛作を開始してもらいます。
これは決定事項なので必須項目となりますが、何らかの理由があって始められない場合にも特にペナルティは設けないということでどうでしょう」
「あ、そうですね。それでいいです」
さりげなく入ったマルカジェリからの提案に、エルシィは満足そうに頷いた。
「いいのか? 小麦の増産は急ぐんじゃないのか?」
と、眉をひそめてアベルが問う。
究極のトップダウン社会である王権主義のこの世界において、貴種であるエルシィの言葉を無視するのはそれだけでも罪になりかねない。
社会がそうなのだからこの決まりを無視すれば社会の崩壊すらありうるのだ。
だがエルシィはなんてことない顔で首を振った。
「いえ、大丈夫ですよ。少し考えれば増産した方が自分たちも豊かになることくらい、農家の皆さんもわかるはずですし」
よしんばなんかしらの反抗心から二期作二毛作をやらない農家がいたとして、一年二年と経った後もその意地を張っていられるか。
周りはどんどん豊かになっていくのに、自分は今のままなのだ。
いや、今より社会が豊かになってインフレに傾けば、場合によってはその彼だけが今より貧しくなる可能性もあるだろう。
「うん、そういうもんか」
アベルは何か釈然としない顔で頷いた。
「続けます」
そうした話が終わったところを見計らってマルカジェリはまたメモをめくりながら口を開く。
「もう少し具体的に言いますと、春から秋にかけては今まで通りの南部小麦、または侯爵閣下が推奨される亜麦の栽培を行い、秋から冬、春にかけて中部、または北部種の小麦を育てます。
この方針に従う場合、数年は税の優遇措置を付けてみてはいかがでしょう」
「いいですね。具体的な税率は財司さんと相談ですが、そういう飴もあった方がうれしいですね」
どうせ食糧生産の全体が増えれば、それだけで税収は増えるのだ。
であれば優遇税率が適用されてもなんてことはない。
「以上になりますが、農村側で何か質問はありますか?」
マルカジェリがそう締めくくると、村長がおずおずと挙手してのたまった。
「あ、その、何分、私どもも初めての試みになりますので、どなたか相談役などいてくれるとありがたいのですが」
エルシィもマルカジェリもこの申し出には満足そうにうなずいた。
すでに村長も話に前向きになっている証拠である。
「当然その辺りのフォローはします。
こちらにはリクハド博士もいますし、秋作を始めるまでには農産局の局員にも博士の知識をある程度修めていただき、農村の相談役についていただく予定です」
エルシィがそう言うと、今度はそれに対してマルカジェリが質問を繰り出す。
「閣下、農産局の局員はどうしますか?」
「それはマルカジェリさんが今面倒見ている農村整理課から移行してもらうのと、めぼしい職員を水司の他から何人か引っ張ってもらってもいいです。
後はクレタ先生の育成校から修了生を優先的に配属させましょう」
「ありがとうございます。それでなんとか回してみましょう」
「お願いしますね」
と、そういうことになった。
「南部は今のところこれくらいで良かろう」
話がまとまると、リクハド老はそう言いだした。
「そうですね。
では村長さん。具体的に話が動き出すのはもう少し先ですが、あなたはそれまでに南部農地の他の農村にこの話を触れ回ってください」
「え、私がですか!?」
「そう、あなたです。ええと、今日からあなたが南部農村連絡会の会長さんです。
以降、この件に関してはマルカジェリさんの農産局と連絡会でやり取りしてください」
「れ、連絡会……会長……?」
急に責任者にされてがっくり肩を落とす村長であった。
「ちゃんと報酬も考えますよぅ」
最後少し駆け足になったが、エルシィたちは元帥杖の権能で中部農地へと飛んだ。
ここはエルシィたちが今現在住んでいるセルテ領都も含む平地にあるので、気候的にも馴染みのある場所だ。
「ここも良い土になっておるのぅ。ガルダル男爵国とは大違いじゃ」
さっそく休耕畑の土をいじり始めたリクハド老が少しぼやきを混ぜた呟きを漏らす。
まぁその辺りは気候的にもガルダル男爵国と比較して穏やかなのもあるし、豊穣神の恩恵があるかないかもかなり大きく影響しているのだろう。
「うむ、ここも問題ない。
春撒きに今まで通り、秋撒きに北部種を持ってくればそれ以上の工夫はあまりいらぬはずだ。
せいぜい秋に追肥をしてやれば御の字であろう」
「麦粒は見なくていいですか?」
「ここの麦なら城に帰ってからでも見られるであろう?」
「そうですね」
そう、セルテ領も含む地方であるからこそ、ここからの税収となる麦は直接領主城の倉庫にも保管されているのだ。
ちなみに北部や南部の麦もないわけではないが、その大半はそれぞれの土地にある倉庫に収められている。
無理に運んでも流通にコストがかかるばかりだからだ。
「たぶん最も問題があるとすれば北部なのだ」
そしてリクハド博士は土を戻して手を払いながら、難しい顔でつぶやいた。
続きは来週の火曜に