393肥料はどうか
であれば。
とエルシィは今聞いた話を反芻する。
つまり印璽による継承が済んでおり、豊穣神の恩寵が戻っているはずのハイラス・セルテ両領で二期作・二毛作を再開する障害はないということだ。
「では何も問題ありませんね。
やっちゃいましょう……やっちゃってください!」
にぱっと輝く笑顔でそう言ったエルシィにリクハド老は面食らった顔を向ける。
「侯爵閣下は神々の恩寵に代わる策をお持ちなのか?
それがなされなければ、せっかくの二期作・二毛作も、単に土地を痩せさせる結果にしかならぬのだが……」
「それに関してはご心配に及びません。すでに解決済みです」
「なんとまぁ……いや、そういえばジズ公国の姫殿下は女神のご加護を受けている、なんていう噂を聞いたことがあるのぅ。
何をたわけたことを、と思っておったが、世の中わからんもんじゃな」
妙に納得して感心するリクハド老だった。
「ところで先ほどから疑問に思っていたのですが……」
と、そこでおずおずと小さく手を挙げるキャリナがいた。
「うん、なんじゃな?」
リクハド老はすぐに気づいて彼女の言葉に耳を傾ける姿勢になる。
キャリナは「こんなことを聞いていいモノか」といった風で口を開いた。
「あの素人質問でお恥ずかしいのですが……土地が痩せたら肥料を撒けばよろしいのでは?」
これにはエルシィとリクハド老は顔を見合わせる。
お互いがお互いに対して「この答えを持っていそうだな」という顔である。
「こほん」
まずリクハド老が我に返って少し申し訳なさそうに言う。
「そうじゃな。それも一つの手ではある。
が、まだ我々学者連中の研究も半ばでな。
自然の恵みで補われるすべてを肥料で代替するには至っておらんのじゃ」
農業で作物を育てるにおいて、必要な栄養素というのは多岐にわたる。
これらは作物を育てれば育てるほどに畑の土から消費されていくわけだが、それを補うのが自然の力であり、豊穣神の恵みであり、そして肥料ということになる。
だがどうしても今現状の人間の知恵では前述の二つを完全に補うには至っていなかった。
これは当然、研究する時間も費用も足りていない故ではあるが、それでも学徒としての使命を胸に抱いているリクハド老は「恥ずかしい」と感じずにいられなかったのだ。
「もう一つあります」
と、雰囲気の沈んだ執務室にそこへエルシィが一石を投じる。
「それはお金の問題です。
肥料を使うにはお金がかかるのです。
自分で作るなら手間だけでしょうけど、様々な肥料を使いたければ買うしかありません。
まぁ、出来た作物が肥料の何倍もの値段で売れるならそれでいいですけど、そうはならないでしょう?」
「おお、そうじゃな。
ワシも魚肥をぶちまけたおかげで財産すっからかんじゃ」
聞いて、リクハド老はいかにも楽し気にかっかっかと笑いながら言い放った。
さて、そうして農業政策の大方針は決まった。
「であれば、後は現地を視察してからじゃの」
言って、リクハド老が椅子から立ち上がる。
「あ、お休みいただくお部屋を用意させますね」
それを受けてエルシィもわたわたと立ち上がる。
「ん?」
「え?」
リクハド老がやけにきょとんとした顔で首を傾げたので、エルシィも疑問符を挙げずにいられなかった。
宿なしのリクハド老の為、城内に寝泊まりする部屋でも用意しようと思ったのだが……これは何か行き違いがある。
そのことにリクハド老も思い至ったようでポンと手を叩いた。
「ああ、それはありがたいがそんなの後じゃ。
まずは現地視察と言っておろう」
「え、今からですか!?」
「冬は長いが、やらねばならんことを考えればまったくもって短い。
休んでいる余裕などないわい」
またリクハド老はかっかっかと笑った。
「なるほど、そうですね。
では行きましょう!」
「行くか!」
エルシィもまた納得して元気に応えたので、リクハド老も最初ギョッとしたが、すぐに顔を見合わせ、二人して笑い声をあげた。
つられるように、エルシィの隣に静かに座っていた山の妖精族のレオがバッと音を立てるように跳ね上がる。
「お散歩!? レオも行く!」
当然、側近衆は薄ら笑いを浮かべつつ、肩をすくめて首を振った。
そういう訳で急遽、農地視察に向かうことになった。
メンバーはエルシィとリクハド博士、近衛ヘイナルとアベル、侍女キャリナ、必要かどうかわからない伝令係と言う態のレオ。
それから急ぎ呼ばれて同行を命じられた水司のとある農業担当課の長が一人。
いかにもしょぼくれた中間管理職という風体の中年男性である。
「ええとマルカジェリ課長さん。あなたには近々発足する水司内のいち支局、農産局の長に就任していただきます。
今日の同行もそのための実績づくりみたいなものだと思って学んでください」
「ええ!? そんないきなり……。
い、いえ、内示頂戴いたします」
驚き慄いたマルカジェリ農村整理課長だったが、エルシィの苛烈な噂を思い出して震えながらその身を正して頭を垂れた。
続きは来週火曜に




