039イルマタル号の帰還(前)
それから二旬が過ぎた。
ここで言う「旬」とはひと月を三分割した単位で、いわゆる上旬、中旬、下旬のことである。
この世界には週という単位が存在しない様で、おおよそ一〇日ごとで区切って生活している。
なぜ「おおよそ」なのかと言えば、ひと月は三〇日だったり三一日だったりするからで、月によっては一旬が一一日となるからだ。
ともかく、二旬、すなわちおおよそ二〇日が過ぎた。
月は「苗の月」から「水の月」へと替わり、これまで晴れが多かった空も、次第にどんよりとした雲に覆われ始める。
水の月とは、どうも雨季らしい。
「お母さまが出発してからひと月ですね」
もうお馴染みとなったいつも通りの朝食の席で、エルシィはボンヤリと呟いた。
ヨルディス陛下がハイラス伯国へ旅立ってからということは、つまりエルシィが城にて代理のお役目を授かってから、ということでもある。
このひと月、エルシィは精力的に動き回った。
ある時は工事現場へ赴き不正を明らかにし、ある時は港でアジフライを作らせた。
その後も市井の者の服を着て市場へ出かけたり、文司の担当部署で手に余ると上訴された案件を裁いたりもした。
エルシィもかなり城内と城下街に馴染んだと言えるだろう。
庶民からの人気もそれなりにあり、市場や港近くを通るとすかさず献上物が集まって来る。
まぁ献上物などと言うと大仰だが、主に市場で取り扱っている農作物や収獲物である。
それだけいろいろと変化があったせいか、エルシィにとってこのひと月はとても長く感じる期間だった。
そんな感慨を含むエルシィの呟きを拾い、向かいに座る兄殿下カスペルもまた、少し疲れた顔で頷いた。
「そうだね。早ければそろそろ帰ってくるはずだけど、何も連絡がないからもう少し先かな」
ヨルディス陛下の代役を務めた彼のひと月もまた、長いひと月であった。
山積みにされる確認と許認可。
問題があれば解決のための案を吟味し、政策実行の音頭を取る。
そして根回しして調整する。
これがなかなか気を遣うのだ。
なぜ絶対者であるはずの専制君主がそこまでせねばならぬのか、と思う向きもあるだろうが、そこは人が集まり人が動いて治まるのが国というもの。
君主とは言え、長たる者が好き勝手にやれば周囲に不満がたまるのだ。
ゆえに各部署、各有力者、それぞれの意見や心情を慮ってソフトランディングさせなければならない。
為政者の仕事とは、とにかくそうした調整の繰り返しである。
そしてそれらはいつまでも尽きることが無い。
そう言う訳で、つまり二人は疲れがたまっているのだ。
「……お休みが欲しいですね」
「うん、欲しいね。母上が戻ってくる前に、少し休暇を検討しよう」
真剣に、兄妹は頷き合って胃に優しい麦粥を口に運んだ。
と、その時、食堂の外側に誰かがやって来たようで、カスペル殿下の近衛士が扉へと寄って行った。
しばし外の者と言葉を交わした後、カスペル殿下の元へと戻って耳打ちする。
「イルマタル号が?」
カスペル殿下は怪訝そうに眉をひそめて聞き返す。
その言葉を拾い、エルシィもまた首を傾げた。
「お兄さま、どうされたのです?」
「いや、母上の船が戻って来たらしい。あと二時間もすれば港に着くだろうと水司からの連絡だそうだ」
これにはエルシィも困惑して、給仕しているキャリナへと視線を向ける。
するとキャリナも、その他の侍従や侍女たちも同様に眉を寄せて困惑した。
「誰かヨルディス陛下からの連絡を聞いた者はいるか?」
ピシッと公子モードに切り替えたカスペル殿下が彼ら彼女らに問うが、誰もが首を傾げ、互いに顔を見合わせて、最後に首を振った。
その様子を統括して、カスペル殿下の侍従が畏まって答える。
「誰も聞いてはいないようです」
「そうか……」
エルシィを含めてなぜこれほど皆が困惑しているかと言えば、ヨルディス陛下の帰還に際し、何の先ぶれも届いていないからだ。
貴顕がどこかを訪問する、あるいは帰還する場合、出迎える者の都合を考えて必ず先ぶれの連絡があるものだ。
これがエルシィやカスペルによる城下町の現場視察程度ならば、そこまで気にすることも無いし、他にも緊急を要する場合などは無いこともある。
が、今回は他国への長期訪問である。
赴く時もハイラス伯国へ先ぶれを遣ったし、帰る時も国元へ連絡があってしかるべきであった。
なのにそれが無かったがための困惑だ。
「外司府を呼べ。……いやこちらから行った方が早いな」
しばし考え、カスペル殿下はカトラリーを置いて椅子から立ち上がった。
これを受けて、侍従の一人がすぐに退出して申次を走らせる。
おそらく、まだこちらと同様に食事中であろう外司府の長へと、伝言に向かわせたのだろう。
「お兄さま、わたくしも一緒に行きます」
そしてエルシィもまた、口元を拭いて立ち上がった。
ヨルディス陛下が本当に帰って来たなら急ぎ出迎えの準備をしなければならないし、先ぶれを寄越さなかったとすれば、何か大事があったのかもしれない。
それらをいち早く知るためには、兄殿下に同行するのが一番である。
はたして、カスペル殿下は妹姫の言葉に頷くことで了承の意を示した。
それぞれの側仕えたちが慌ただしく動き出し、大公家の兄妹は揃って食堂から外へと向かって進みだした。
ここからしばしシリアス進行
次回更新は金曜日です