355化学の徒
ボーゼスの里にて長老として君臨してきた老猫は、今までにないくらい慌てた様子で屋敷を飛び出した。
飛び出し、そのままもつれる脚をなんとか操り、里中で最も高いところにある社殿に向かう。
見る人が見れば、それはエルシィの故郷のジズリオ島にあるティタノヴィアを祀る社殿にいくらか似ている。
おそらく、建てられた年代は近い頃なのだろう。
その社殿に飛び込んだ老猫は、転げるように奥の部屋へと向かい、隔てる引き戸を勢い良く開けた。
「メギスト様、大変なことが起こったにゃ!」
「どうしました慌ただしい。
今、デリケートな調合をしているところですよ。
静かになさい」
「も、申し訳ありませんにゃ」
ぴしゃりと言われて両手で口を押えた長老が見たメギストなる人物。
それは草原の妖精族ではなく人であった。
つややかな金糸のような長い髪をひと房さえ動かさぬ慎重さで、メギストは手にした長細い容器から別の器にドロリとした液体を注ぎ込む。
その所作が終了すると、今度は手が霞むほどの速さで器の混合物をかき混ぜ始めた。
長老はその様子をしばし静かに見ていたが、自分の使命を思い出してハッとした。
「それどころじゃないにゃ。敵が攻めて来たにゃ!」
メギストは美しい眉を不機嫌そうに寄せ、そして手を止めて長老を見る。
「敵、とは?」
さっきの叱りつけるようなどこか優しさを含むものではない。
それは刃のような、どこか冷めきった鋭さを持つ問いだった。
長老はごくりと固唾をのんでから、震え声で答える。
「どこの誰かはわからないにゃ。
ですが、草原の妖精族であることは間違いないにゃ」
メギストは大きなため息をつき、手にしていた器とかき混ぜ棒を机に置く。
「侵略者ですか。
この山にそのような者たちが来るのは実に三〇〇年ぶりです」
「我ら草原の妖精族が住み着いてからは初めてにゃ。
どうしたらよいですかにゃ?」
メギストはきょとんとした顔で困り顔の老猫を見る。
そうか。もうずっと一緒に暮らしていると思っていたが、彼ら草原の妖精族がここに住み着いて、まだ一〇〇年程度か。
メギストがこの世界に生れ落ちてすでに幾千年が過ぎただろうか。
彼はこの世界を支える神々のひと柱であった。
司るのは本草。つまり薬学である。
神ではあるが、その前に彼は趣味人であった。
ゆえにある程度、人類を導き守る仕事をした後は、このボーゼス山脈に引きこもって趣味の薬草園を耕しつつ、様々な薬を作って暮らしてきた。
たまに、他の神からの要請でお役目を果たしつつも、基本的には隠遁生活をずっと続けてきたのだ。
とは言え、もう数百年は他の神の声すら聞かない。
すでに隠れたか、他の地へ旅立ったかしたのだろう。
だがメギストはそんなことに興味はない。
彼は薬草を育て、調合をし、化学の徒として過ごすことだけに生きがいを感じているのだ。
そんな彼の住むボーゼス山にねこ耳たちがやってきたのはおよそ一〇〇年前。
聞けば人の社会で迫害を受け逃げ出してきたという。
メギストにとって特に興味のない話であったが、彼の邪魔をしない、という条件の元で山に住むことを許した。
まぁ、薬草園をはじめとした山の動植物をある程度管理してくれる者がいると助かるな、という打算があったことも確かである。
ともかく、そうした共生生活が始まりしばらくすると他人に興味のないメギストでもさすがに情が沸いたらしい。
そのうち、病気の子猫あらば薬草を煎じてやり、身を守るために危険な薬効のある毒草を教えてやったりした。
こうすると、ねこ耳たちがメギストを崇め奉るようになるのも時間の問題であった。
そうして現在。
ねこ耳たちは主としてメギストを祀り、そのうえで自分たちの社会を形成して自治を行っている。
メギストが主と思われているゆえに、自分たちで判断しかねる重要案件が発生すると、こうしてお伺いをしにやってくるのだ。
メギストは「うーむ」と腕を組んで考え込む。
そう頼られても、自分は化学者でしかなく、武力など何も持ってはいない。
過去、他の神の力を根拠にこの山脈を領地とした人間もいたが、最高峰であるこの山までは行軍途中で採算が合わないと判断したのか、たいてい踏み入ってこなかった。
踏み入ってきた者たちもメギストがしばらく隠れていれば、薬草の価値もわからず帰ってくのがほとんどだった。
だが、今はその手段が使えない。
なぜなら彼一人が隠れても、ねこ耳たちが残るからだ。
「仕方ありません。あれを使いましょう」
「あれ、ですかにゃ?」
渋々、という様子で発されたメギストの言葉にねこ耳長老が首をかしげる。
相変わらず察しが悪い、と苦笑いをこぼし、メギストは言い直す。
「桃園の陣を使います。
動ける者を全て集めなさい。
それ以外は、この社殿の奥に隠れなさい」
「はは、直ちに集めますにゃ」
ねこ耳長老はさーっと顔を蒼くして平伏した。
続きは来週の火曜に




