344悪意なき矢
さて、ほんの少しだけ時をさかのぼる。
それはエルシィがユスティーナによって舞台へと引っ張り出されたあたりだ。
観客席にいたとある二人が、キツネにつままれたような顔でしばし舞台を唖然と眺める。
眺め、そのうち大小の小の方が慌てて大の方に振り向く。
まぁ大小と言ってもそれはあくまで二人の区別であって、他から見るとどちらも小さいのだが。
それはともかく、小が言う。
「侯爵って言ってたにゃ!」
「お、おう。聞いたにゃ。そうか、あんな子供がにゃぁ」
大も答えつつ、困惑気に、また感心気に頷いた。
「そうすると、今回のターゲットはアレにゃ?」
「そうなるにゃ?」
そして声を潜めて不穏気なことを言う。
周りの者は舞台に注視傾聴していることもあり、二人の会話など気にも留めた様子はない。
それをいいことに二人はヒソヒソ話を続ける。
「どうする? 今やっちゃうにゃ?」
「いやしかし、まだ今日、依頼を受けたばかりにゃ。
普通なら何日か身辺調査して、それから計画を練るところにゃ?」
「そうは言うけどめっちゃチャンスにゃないか?」
「確かに? いやでも急いては仕損じることもあるかもにゃ?」
「うーん……」
二人は目の前にぶら下がった幸運の果実に戸惑い、迷い、そして考え込む。
そうしている間にエルシィの歌は進む。
いつの間にか、二人はウットリと聴き入っていた。
「はっ! 危うく騙されるところだったにゃ」
「何がにゃ?」
「侯爵の幻術にゃ」
「幻術!?」
「ターゲットの歌に聴き惚れるとか、普通ないにゃ」
「確かに!?」
もちろんエルシィは幻術なんてものは使っていない。
それどころか今は宴会芸のつもりで歌っているし、むしろ失敗しないようにいっぱいいっぱいでそれどころではなかった。
そんな彼女の心情など知らずに、二人は警戒心を強めた。
「やっぱりここで殺っちゃうにゃ。
時間が経てばこの魅了の幻術に囚われて殺れなくなるにゃ」
「そうかもしれんにゃ……よし、殺っちゃうにゃ?」
「殺っちゃおうにゃ!」
そう二人は結論付けて行動を開始する。
歌がクライマックスに向けて盛り上がり、そして終息の時を迎える。
観客のすべてではないが、多くの者がその曲に感銘を受けていた。
エルシィの後ろにて即興の演奏を付けていた吟遊詩人たちも感心しきりである。
それはもちろん、舞台袖で聴いていたフレヤもまたそうであった。
いや、彼女は他にもまして恍惚の表情を浮かべている。
曲が終わり、静寂が訪れ、ゆったり数十秒と余韻を残すと、観客の数人から広がるように拍手が起こった。
フレヤは満足そうにそんな観客席を見渡し、ウンウンと何度も頷く。
その直後、フレヤの異変に斜め後ろで見ていたヘイナルが首を傾げた。
フレヤが一転して真剣な、そして憤怒の形相に変わったのだ。
「フレヤ……」
いったい何が、そう声をかける間もなく、フレヤが腰に差していた短剣を抜き放つ。
「おいぃ!?」
ヘイナルが、そしてアベル、キャリナが次々と悲鳴に似た声を上げた。
彼、彼女らが止める間もなく、短剣を携えたフレヤが舞台へと駆け上がる。
観客も、突然の闖入者に反応できずにいる。
気でも狂ったか!
ヘイナルたちの誰もがそう思った。
だが、そうではない。
「間に合わない……女神よ、主君を守る力を貸し賜え……『一閃天衝』」
フレヤの叫びが天に届き、彼女は一閃の矢となる。
短剣は淡く輝き、その切っ先はエルシィの御前に一瞬で届く。
カキン
そう、何か金属同士がぶつかる音がした。
よく見れば、飛翔した小さな矢が、フレヤの短剣に弾かれた所だった。
この瞬間、ヘイナルとアベルも気付き観客席へと顔を向けた。
「暗殺だ! アベル、行け!」
「おう!」
言われるまでもない。と心で返しながら、アベルが俊敏に観客席へと駆ける。
同時にヘイナルはこの広場の出口側である道の一つへと向かった。
キャリナはすぐさま主君の盾となるべく舞台へと上がる。
ちなみにフレヤは矢を弾き飛ばしたはいいがそのまま勢い余って舞台の反対側で転げている。
これは仕方ない。
ともかく、突然の暗殺騒ぎに多くの観客はパニックを起こした。
自分が狙われたわけでもないのに逃げ出そうとする者さえいる。
その流れに押され転げる者もいる。
これはいけない。
驚きに呆然としていたエルシィだったが、すぐに駆けて来たキャリナから元帥杖を受け取ってその柄で石畳の舞台を勢いよくカンカンと突く。
「静まりなさい! 落ち着きなさい!」
それは先ほどの神聖な響きを持つ声とは一線を画す、威厳に満ちた言葉だった。
これに当てられ、パニックを起こしていた者たちはさらなるビックリに上書きされたように立ち止まってエルシィを見た。
エルシィは続けて言う。
「狙われたのはわたくしです。そして、わたくしは無事です。安心なさいませ」
逃げ出そうとしていた者たちはそれを聞き納得し、そのうえで「年端も行かぬこの子供がこうまで堂々としているのに。なぜ自分は逃げ出そうなどとしたのだ」と、恥ずかしさにうつむいた。
「やれやれですね」
ひとまず騒動が収まって、エルシィはふひーと額の汗をぬぐうように息をつく。
「他人事ですか」
キャリナは主の落ち着きぶりにいくらか呆れてため息をついた。
続きは金曜日に