034刺し網漁
漁船は帯状の網を海面に落としつつ、漁場に大きな円を描く様に走り続ける。
海面に落とされた網は片側の辺に浮きが付けられているので、海中で網を広げて立つ様に垂らされる。
「浮きロープの長さを変えれば、網の深さも変わるってわけよ」
「狙う魚によって、という訳ですね」
「そうそう。お姫さん、なかなか理解が早いな」
リズムよく網を海中へと送り続ける船長の脇でしゃがみ込み、エルシィはそんなやり取りをしながら流れていく浮き眺めた。
まぁ実際には浮きが流れているわけではない。
船が進んでいるからそう見えるのだ。
広い海原に聞こえるのはザザザッという波切音と、「おーえ、おーえ」と言う櫂を操るむくつけき男どもの掛け声だけだ。
時折、離れた場所で漁をしている船からも似たような声が聞こえてくる。
風の流れによって、それは聞こえたり、無くなったりを繰り返した。
一定のリズムで聞こえ続ける波と掛け声。
それと暖かいポカポカとした春らしい日差しの中で、エルシィは少しだけうつらうつらと首を傾け始めた。
ところが、ふと、どこからか聞こえてきた場違いな子供の声でパチッと目が覚めた。
「こども?」
疑問をもらしつつ、「夢でも見たのか」という思いで海面を見回す。
すると、船から五〇mばかり離れた海面を、大きな魚が通り過ぎて行った。
いや、それは魚ではなく白く大きなイルカだ。
それだけでもびっくりするところだが、そのイルカは背に子供を二人乗せていた。
「船長船長! あれっ、あれ!」
パっと立ち上がり、気にもせず網を送り続ける船長の裾を引く。
「あ? ああ、気にすんな」
少しだけ視線を向けた船長は、そんな子供を乗せたイルカを見止め、すぐに作業に戻った。
あまりのそっけなさに、エルシィはまた驚きつつ視線をイルカに戻した。
注目すれば、途切れ途切れだった声ももう少し解って来る。
「アベル、しっかり掴まって。振り落とされるわよ」
「ちょ、待てよ姉ちゃん。落ちる落ちる!」
イルカの上の子供は、前に乗るのが女の子で、後ろにはその弟らしい男の子が姉の腰にしがみ付いている。
姉弟、とはいえ、背格好からするとあまり歳の差を感じない。
年子か、双子なのかもしれない。
などと唖然としながらも想像し、エルシィはつい、「ふふふ」と微笑まし気な笑いをこぼした。
「どこのガキか知らんが、偶にいるんだ。こっちの邪魔するわけでもないから放っておけばいい」
肩をすくめてそのように言う船長だったが、エルシィは流れゆく網に目を戻しながら呟くように返事をした。
「でも楽しそうじゃないですか」
言われ、船長はしばしパチパチと目を瞬くと、子供の様に笑って答えた。
「まぁ、そうかもな」
その後は、網が流れきるまで作業を眺めつつ、遠くで遊ぶ二人の子供の声を聴いて過ごした。
そのうち子供の声が遠くへ消えると、ちょうど船上に積み上がっていた網の束はなくなった。
それと同時に船長が「とまーれぃ」と声を掛けると、漕ぎ手たちも「えいさー」と答え櫂を下ろして船を止めた。
海面を見れば、おろした網の浮きは、海面に円を描く様に点在していた。
「こうやって魚がいるところを囲っちまうのさ。後は網を引き揚げれば終わりだ」
「お魚がいる場所はどうやって知るのです?」
聞かれ、船長は口元をニヤリと挙げて得意満面の顔を晒す。
「漁師の勘だ。こいつが優れていないと、漁師の親方は務まらねぇ」
「それはすごい」
あまりの自信に、エルシィは称賛の為に手を小さくパチパチと叩いた。
船長は少し照れ臭そうに身をよじって笑った。
「よし、網を巻き上げるぞ」
気を取り直すように声を大にして船長が叫ぶ。
「おえーい」
すると漕ぎ手たちが櫂を置いてやって来る。
その半分が大きなリールのところどころ突き出た棒にとりつく。
この者たちが掛かって網に繋がる大きなリールを巻き上げる様だ。
しばし海面を睨むようにしていた船長は、男たちを振り返って大きな手ぶりで命令を下した。
「まきあげーい」
「おーえ!」
声が上がり、リールがゆっくりと回りだす。
船長と残った数人がその回転に合わせて網を引き揚げる。
「まけーい」
「おーえ」
繰り返し、一定のリズムで引く、巻く、を繰り返し、海に沈んでいた帯状の網がどんどんその姿を現し始めた。
「……思ったほど掛かってませんね?」
が、しばし見ていても、その網には魚がまったくついていなかった。
がっかりだよ、とでも言いたげなエルシィの表情に、船長は苦笑いをもらす。
「この時間ならこんなもんだ。そもそもそんなに獲っちまったら、魚がいなくなっちまうよ」
「そんなものですか」
「そんなもんさ。まぁもう少し見てな」
そんなやり取りをしている間にも、網はどんどん巻き上げられる。
すると、ちらほらと大きな魚が網に打ち上げられ始めた。
「マグロですね!」
見てすぐに分かった。
エルシィはフンスと鼻を鳴らしながら目を輝かす。
が、船長はそのマグロを無造作にガッと掴むと、すぐに船外へと放り投げた。
「ええ、なぜですか!」
エルシィは悲痛な叫びをあげる。
すでに脳内にはマグロのまろやかな風味の幻が広がっていたので、その落胆も小さくはない。
船長はまた苦笑いで答える。
「マグロの旬はもう少し先だ。今、食っても脂がいまいちだぞ」
「そうなのですか」
「そうなんだ。マグロは、もう少ししてからな」
とほほ、と肩を落としつつも、「まぁプロがそう言うのですから」とエルシィは納得を見せてさらに網を見つめた。
このあたりから、ちらほらと魚が多くなり始めた
帯状の網の、おおよそ真ん中あたりが、多いようだ。
船長たちが作業を続ける。
旬以外の魚をポポイと海へ投げ、それ以外を船の真ん中にある箱、つまり生簀へと放り込む。
生簀を覗き込めば、見える魚はアジ、アジ、アジ、カレイ、アジ、アジ、といった塩梅である。
「アジばかりですね」
「そりゃ春だからな。アジだけは腐るほど取れる。まぁお姫さんにはちゃんとカレイやっから安心しな」
がはは、と笑いながら船長はそう言った。
しかしエルシィはキョトンとした表情で首を横に倒す。
「カレイは嬉しいですけど、アジはダメなのです?」
問われ、船長は困惑気に眉をゆがめた。
「いやダメってこたぁないが、アジだぞ? お城の上様方が食うもんじゃないだろ」
ふむ、とエルシィは少し考えこむ。
どうやらアジは外魚扱いらしい。
庶民は好んで食べるだろうが、わざわざ御上へ献するようなものではないのだろう。
だがせっかくの旬モノなのだ。
ここで食べないなどという選択はあるだろうか。いや無い。
エルシィは心の中で自問自答を反語的にこなし、そしてニッコリと顔を上げた。
「いえ、アジも何匹かいただきます。お城へ持ち帰ることがはばかられるなら、いっそ港で食べてしまいましょう」
マジか。
という顔で船長がギョッとした。
いや船長だけでなく、他の船員たちもギョッとした。
アジだけにマジ。
魚だけにギョ。
と、エルシィは一人、ぷぷぷとこみ上げる笑いをこらえていた。
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