334チキンカレーその3_料理はタイミング
フルニエ氏が玉ねぎを火にかけかき混ぜることおよそ二五分が経過した。
「ゼェ……陛下……ゼェ……これで……よろしいですか?」
フライパンをかまどから調理台に移し終えたフルニエ商会長は、手を離した途端に崩れ落ちるように床へと膝をつく。
そんなに疲れる作業ではないでしょう?
エルシィはそう思いつつも最終確認としてフライパンをのぞき込む。
みじん切りになった玉ねぎは、見事深いツヤのあるブラウンに変化していた。
「ぶらぼーです! さすが食品最大手の商会長さん。ハナマルです!」
喝采を送りつつ、エルシィは宙に大きく花輪のついた二重マルを描き出す。
言葉の意味も行動の意味もいまいち解らないフルニエ氏だったが、おそらく褒められているのだろうと力の入らない弱々しい笑みで振り向いた。
「きょ、恐縮です」
まぁ、実際、面倒ではあるが満身創痍になるほどの作業ではない。
彼の疲労は九割がたが心労である。
玉ねぎを炒めている間中、天上人である侯爵陛下とその側近の子供二人に手元を凝視され、さらにはその背後ではフルニエが粗相を侵さぬかと侍女や短剣を腰に下げた近衛がにらみを利かせているのだ。
喉がヒリつくような数々の商いを経てきたフルニエ氏だが、それとは別の緊張感に膝をつかずにはおれなかった。
それでもフライパンを置いてから崩れ落ちたのは褒めるべきところだろう。
「では続き……と行きたいところですが、調理担当さんがこれでは仕方ありません。
ここはいよいよわたくしが……」
言葉とは裏腹に満面の笑みで袖まくりするエルシィだったが、そのなまっちろい二の腕は何者かにガッとつかまれた。
振り向けばそれは最側近にして海軍提督、ぶちかまし魚雷のバレッタさんである。
彼女はとてもいい笑顔で首を振ると、そのまま自分を指さした。
つまりはここは私に任せろ、ということなのだろう。
さらに後ろへとぐりんと顔を向けてみれば、侍女キャリナが厳しい顔で大きくうなずく姿が見えた。
言葉を発していないが「そうせい」と言っているのはわかる。
エルシィは仕方なく、たいそうしょんぼりした様子で袖を戻しバレッタに場所を譲った。
「それでお姫ちゃん、ここからどうしたらいいの?」
問われ、エルシィは気を取り直して指示に徹することにした。
「はい、では飴色になった玉ねぎを弱火にかけながらニンニクとショウガを投入してまぜまぜしてください」
「わかったわ、任せて!
……アベル、ニンニクとショウガよ!」
任せてと言いつつフライパンをもう一度かまどに乗せたバレッタは、流れるように弟アベルへと言葉を飛ばした。
「オレかよ!」
「他に誰がいるのよ。早く早く! 焦げちゃうでしょ」
まさかまた自分の出番が来るとは思っていなかったアベルが驚きに目を見開くと、バレッタはあきれ顔で肩をすくめて玉ねぎをかき混ぜる。
傍から見れば理不尽言ってるように見えるが、これで姉弟はうまく回るものである。
いつの間にか子供用のエプロンを身に着けたアベルはやれやれとぶつくさ言いつつも用意してあったすりおろしニンニクとすりおろしショウガをフライパンに投入する。
ちなみにこの間、フルニエ商会の大番頭氏は姉弟のエプロンを用意したり、かまどの火力調整をしたり、ニンニクショウガをすりおろしたりと、影で忙しく立ち回っている。
さすが大商会の総支配人的な立場ともなれば回しも一流である。
「次は次は!?」
フライパン上で玉ねぎとニンニクショウガが混ぜ合わさり、おいしそうな香りが厨房に広がる。
そうするとバレッタはいてもたってもいられないという風にエルシィを急かした。
「姉ちゃんあわてるな。料理にはタイミングがあるって、昔、誰かに聞いた覚えがある気がする」
「……そういえばそんなこと誰かが言ってわね?」
料理はタイミング。
つまり適切な時間を使い、適切な時に材料や調味料を投入するという意味である。
これは彼らの実母が過去、何気なしに口にした言葉であった。
特に大きな意味があって言ったわけではないが、姉弟の記憶にはかすかに残っていたようだ。
もっとも二人が父母と過ごしたのは今以上に幼い時分だったこともあり、全体的におぼろげな記憶だった。
ともあれ、急かすのをやめたバレッタとアベルは手を動かしつつもエルシィへ顔だけ向けて無言の催促をする。
「では水溶きの小麦粉を少々。
そしていよいよスパイスを投入してください」
「全部かしら!?」
「唐辛子、ターメリック、クミン、コリアンダー、そしてお塩。
全部いっちゃってください」
「あいあいさー!」
番頭氏が用意した材料をアベルが受け取り、それをリレー形式でバレッタに渡す。
バレッタはそれらを勢いよくフライパンにぶちまけた。
その様子を見てフルニエ氏が「おお……」と小さくうめく。
スパイスが高価であることはすでに述べたが、ゆえにそのスパイスを何種類も使う料理というのはあまり聞いたことがない。
高級な料理であってもせいぜい二種類。
しかもそのうち一種は手に入りやすいハーブ類というのが、この世界では一般的なのである。
そこへハーブ込みとはいえ四種のスパイスを惜しげもなくぶち込むのだから、その価格を知るものからすれば眩暈がするのも仕方ないことだろう。
次回は仕上げ
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