331悩みを吹き飛ばす
フルニエ商会長。大いに悩む。
これまで副会長と言う地位でその経営をつぶさに見て来た彼であったが、どちらかと言えば順調に伸びていたフルニエ商会である。
ところが彼が会長職を引き継ごうという前後から雲行きが怪しくなり、今やすっかり商会全体の進退を決定しなければならないターニングポイントだ。
まさか自分が会長になった途端にこんなことになろうとは。
しかもその原因たるや、一切自分にはないのだ。
と言う訳で、フルニエ商会長と大番頭の老人は、応接ソファーで彼らの返答の如何を待ちながらハーブのお茶を嗜むお子様侯爵を前にして頭を抱えた。
本来であればここはいかにもスマートに跪いて返答するのが作法である。
あるが、彼らもフルニエ商会員数百の生活を抱えているのだ。
簡単に割り切っていいものではない。
よって、出来ればこのまま転げまわりたい心をグッと抑えて、頭を抱えて唸るだけにとどめたのは褒めていい。
さて、そんな苦悶の様子を静かに眺めていたエルシィは、お茶のカップが空になったところで「しめしめ」と口端に笑いを浮かべた。
「人は生きる限り悩み尽きぬもの。わかります。よーくわかりますとも」
この声を聴いて、フルニエ商会長たちは顔を引きつらせてエルシィ侯爵陛下に注目した。
またぞろ、この人は頭の痛い提案をしてくるのではないか。
そういう警戒と恐れを抱きつつ、である。
しかしてエルシィはそんな気持ちを知ってか知らずかニコリと良い笑顔で宣うのだ。
「悩み多きその時、行き詰った時、そういう時にどうすればいいかお教えいたします」
まさか自分の数分の一しか生きていない少女にそんな人生訓じみた話をされるとは誰も思わないだろう。
フルニエ商会長も、そしてエルシィの側近たちも同様だったために面食らってギョッとした。
さて、いったい何を言い出すやら。
それぞれがそれぞれの思いを胸にしつつ、その言葉を待つ。
エルシィは満を持してというドヤ顔で彼女の、いや彼の人生訓を言い放った。
「そんな時は美味しいものをお腹いっぱいに食べて、一晩ぐっすり眠るのです。
そうすれば人間の悩みなんて半分は吹っ飛びますし、吹っ飛ばなかった悩みにも今よりいい考えが浮かぶというものです」
「……なるほど?」
誰かがそう、困惑気味に頷いた。
フルニエ商会の二人は困惑したままに首を傾げ、侍女キャリナは頭痛を覚えるように首を振り、近衛であるアベルとヘイナルは「まぁ、そういうこともあるか?」とやはり首を傾げた。
そしてエルシィはすくっと立ち上がる。
立ち上がり、誰に向けているのかタイトルコールである。
「エルシィ!」
「バレッタの!」
「おりょうりがんばるぞーおー!」
そう、これに呼応して声を上げたのは、今日同行している側近の一人、双子の姉の方バレッタ嬢であった。
「なんで今日は姉ちゃんが一緒なのかと不思議だったけど、こういうことだったか!」
弟の方、アベルが「あちゃー」と言う顔で少し引いていた。
「りょう……り?」
フルニエ商会長がキョトンとした顔で復唱する。
いや、彼だって料理がなんであるかはわかっている。
解っているが、侯爵陛下と言うこの領地最高の貴顕の口から出た言葉として、さてこれが適切であるか判断がつかなかったのだ。
なにせ「おりょうりがんばる」ということは、彼女が作ると言うことに他ならない。
いったいどこに手ずから領民に料理をふるまう領主がいるというのか。
まぁ、ここにいるわけだが。
いるわけだが、侍女頭としてこれを許すわけにはいかないという気持ちがキャリナにある。
「いけません、エルシィ様」
ゆえに、そうたしなめる。
「えー、では代わりにキャリナがやってくれますか?」
「わ、私ですか!?」
それもまた無理である。
彼女は侍女であってメイドではない。
そして貴顕に着く侍女と言うものはそれはそれで良家の子女なので、料理など仕込まれていないのだ。
「ではわたくしがやるしかありませんね」
えへん、と胸を張って言い放つエルシィと、それにならんで同じポーズをとるバレッタである。
「エルシィの料理はこれまでも評判悪くはなかったし、大丈夫じゃないか?」
「いや、そういう問題ではないのだが……うーむ」
ハイラス伯領の農村、そしてジズ公国の港でエルシィはそれぞれ料理の知識を披露している。
どれも美味しかった。
そう記憶するアベルが言い、ヘイナルもまた頭を悩ませる。
特に、最近側仕えとして少しずつ復帰しているヘイナルからすると、久しぶりのノリでちょっと疲れるのだ。
「え、本当に、その、料理をなさる?」
少しずつ混乱から回復してきたフルニエ氏が恐る恐る問う。
これに対しエルシィはいい笑顔で大きく頷き、隣にいる侍女キャリナはしかめ面で首を振る。
つまり、侯爵陛下は料理する気満々だか、侍女としてはそれをさせたくない、と言うことだろう。
フルニエ氏は「よく解らないことになったぞ」と思いつつも提案する。
「わかりました。実際の調理は私が引き受けましょう。
なに、これでも若い頃は行商に出た先で自炊していたのです。
どうぞお姫様方は後ろからご指示ください」
エルシィはこれにちょっと不満そうに唇を尖らせたが、最後には仕方なしと言う風に頷いた。
「して、何をお作りしたらよろしいので?」
再び発せられたフルニエの問いに、エルシィは元気よく答える。
「今日はチキンカレーを作りたいと思います!」
チキンカレー。
誰もが聞き覚えの無いその料理の名に首を傾げた。
ついにカレーを作ります
続きは来週の火曜に