033お魚天国へ
港から漕ぎ出した漁船は、沖へと向けてスピードを上げる。
三〇分もするとエルシィを乗せた船は、もう他の漁船と同じ辺りまでたどり着いた。
狭い甲板に仁王立ちになったエルシィは、楽し気に声を上げた。
「ほおぉ、なかなか速いものですね。感心しました」
「はっはっは、うちの漕ぎ手はなかなかやるだろう? ……でしょう?」
褒められ上機嫌になる船主兼船長は、無精ひげを揺らしながら言い、そして思い出したように丁寧語らしい語尾をちょろっと付け加えた。
少し気まずそうに苦笑いを浮かべる。
「船長さん、ここは海の上です。陸の上のしがらみは無しにしましょう」
エルシィは少し悪い笑いを浮かべながら、横目で船長に語り掛ける。
どうせキャリナはいませんしね。
と、心の中で付けくわえながら。
一瞬、驚きにポカンと口を開けた船長だったが、すぐに破顔して笑い声をあげた。
「さすが噂のお姫さんだ。器がデカいねぇ」
「その噂は嘘んこなので忘れてください」
自分の意図しない噂が何やら流れているようなので、すぐ打ち消すために言葉を重ねるのだが、残念ながらその声は船長の耳に届いていない様だった。
「エルシィ様は意外と逞しいですね……」
と、そんな二人を少し離れた船のヘリから眺めていた近衛士ヘイナルは、青い顔をしながら呟いた。
そう、彼は出港後二〇分もすると謎の嘔吐感に襲われ、あっという間に役立たずに成りおおせた。
つまり、盛大なる船酔いである。
船とは、とても揺れるものなのだ。
さて漁船は今、帆を畳んでオールによって進んでいる。
漕ぎ手は船長配下の若手漁師一〇人が両舷に別れ、「おーえ、おーえ」と掛け声を出しながら汗を流しているところだ。
前甲板で船長と進行方向を眺めていたエルシィは、少し飽きてきたところでそんな若手衆を眺めながら船の後部へと歩いて行く。
「危ないですよ、エルシィ様」
そんな中、船酔いのせいもあって完全に千鳥足状態のヘイナルが慌てて後を追う。
が、揺れなど何のその、と言った風に、エルシィはまるで重力を感じさせない様子でヒョイヒョイと進む。
それを見た船長はまた驚きにポカンと口を開け、顎を撫でながら感心に頷いた。
「こりゃ、大したもんだ。お姫さんは漁師でも立派にやっていけるな」
実のところ、エルシィも初めは何度かよろけたりもした。
だが、しばらく前甲板でバランスを取りながら立っていたので、身体が揺れに慣れたのだ。
出港後のしばらくを仁王立ちで過ごしていたのは、半分は「動くと転びそうだった」からに他ならない。
ともかく、危なげなく進むエルシィは、追って来る危なっかしい護衛に振り向き両手を腰に当てて立ち止まった。
「危ないのはヘイナルの方です。
たぶん大丈夫ですから、ヘイナルは海に向けてコマセをぶちまけていてください」
「コマセ、ですか」
釣りをやったことある方ならご存じかもしれないが、コマセとは魚をおびき寄せるために撒くオキアミなどの寄せ餌の事だ。
言葉の意味は分かったが、なぜ近衛士である自分が?
と困惑気に首を傾げたヘイナルだったが、そんな彼に見かね吐く素振りをジェスチャーして見せるエルシィによって、やっと比喩なのだと理解した。
つまり「船酔い患者は大人しく船のヘリでゲロでも吐いてろ」と言われているのだ。
「こんなことが知れたら、またホーテン卿に『鍛え方が足りん』と叱られそうだ」
釈然としない気持ちを抱えつつも、ヘイナルはお言葉に甘えて船のヘリへと向かうのだった。
さて、ヘイナルを追い払ったエルシィは中央に置かれている大きな箱を迂回しつつ後部へ向かう。
後部には、山積みにされた漁業用の網と、大きなリールが備え付けられていた。
「船を走らせながらその網を流して、後からリールで巻き上げるんだ」
後に付いて来ていた船長がそう教えてくれる。
陸のしがらみは無し、と言われたが、それでもこの小さなお姫さんが客人であることには変わりない。
目を離した隙に怪我でもされたら首が飛ぶのは船長なのだ。
そう言うこともあり、彼はなるべく離れない様にとエルシィの後を追っていた。
「なるほどなるほど」
感心気に頷いたエルシィは、網が積まれている近くにしゃがんでよく観察する。
網目はそれほど細かくない。
エルシィ腕がスカスカと通り抜けてしまうほどだ。
こんな網では魚がすり抜けてしまって、獲れないのではないだろうか。
そんな疑問に首を傾げると、察した船長は少し笑いながら得意げに口を開いた。
「まぁ見てなって。これから実際にやって見せるからよ」
そう言ってから、船長は漕ぎ手の若衆に振り向き大声で指示を飛ばした。
「おおい、これから網流すぞ。しっかりやれ!」
「えいさー」
船長の言葉に若衆は声を揃えてあげる。
見ていれば、各位漕ぐ手を緩めてスピードを落とし始めた。
いよいよ漁が始まるようだ。
船長が網の先を海面に落とす。
「ちゃくすーい!」
「えいさー」
また上がった船長の掛け声に、若衆が声を返して少しスピードを上げた。
漁場に向かう速度ではないが、そこそこ早い。
そして進む船の後部で、船長は次から次へと網を流し続けた。
どうやら、帯状で長い網のようだ。
エルシィは船長と漕ぎ手たちを交互に見ながら質問をする。
「この海ではどんなお魚が獲れるのです?」
「うーん、いろいろいるがね。サケ、マグロ、タラ、サバ、カレイあたりが主なところだな。あとエビやホタテも獲れる」
「ほえぇ! すばらしいではないですか」
耳に聞こえた錚々たるラインナップに、エルシィはつい、感嘆と歓喜に声を上げた。
エルシィの脳で理解される言葉は女神翻訳なので、当然、日本で見る魚とまったく同じ種類ではないだろう
が、それでもそう理解できたということは、近い種の魚であるはずだ。
つまり『サケ』と聞いたのは『鮭』ではなく、あくまでサーモン種と言う様な解釈である。
まぁ今どき日本でも回転すしなどでは代用魚が当たり前に流通しているので、味さえ似ていれば忌避感はあまりない。
というか、海外で丈二が食べた日本料理では、当たり前にように代用素材がてんこ盛りなので今更である。
以前、中東で日本式ウナギ料理を出す店があると聞き、喜び勇んで行ったことがある。
が、出てきたウナギは日本のウナギとは似ても似つかない、ギトギトに脂の乗ったウナギだった。
なんてのがいい例だ。
おそらく地域で手に入る別種のウナギだったのだろう。
ともかく、味がある程度想像できる上に、その味が「美味い」と思える種の名前を聞いて、エルシィの気分は有頂天へと舞い上がった。
「さっけいくら、まぐろはとろとろ、さばみそずいずい」
ウキウキと小躍りで歌い出すエルシィに、網を送り出し続ける船長はいかにもおかしそうにケタケタ笑う。
「おい、笑かすな。手元が狂うだろ」
「だって、お魚美味しいじゃないですか。
……はっ、味噌がないからサバみそ出来ない!」
「楽しみにしているところ悪いが、お姫さんの言った三種とも今は旬じゃないぞ」
「そんなー」
などとやり取りをしつつ、船は漁場に網を落とし続けるのだった。
今日で10万字達しましたので、営業日更新は終了します
これからは週2回程度の更新ペースで、次回は今週の金曜日とします