321商談成立
副商会長の脳裏には「渡りに船」とい意味の慣用句がよぎった。
会長の狂った判断により、フルニエ商会は今季市場に流すはずだった小麦を売り渋ることが決定した。
このことで困る人は方々にいるが、会長の目的は単に「自分を馬鹿にした侯爵陛下への意趣返し」である。
そんな子供じみた決定にはうんざりな息子副商会長だったが、それでも会長には権力があり、その方針をまるきり無視して勝手に売りさばくするわけにはいかない。
なぜなら商会の資産と言うのは税法上は商会の資産で、ある意味商会員の共有物だが、実質は商会長のモノなのだ。
だが、方針に従うのであれば、売り渋り死蔵品となった小麦をどこかへ売り払うのは良いのではないか?
なにせ売りさばく当てもない在庫など、倉庫代の分だけマイナスを生み続ける負債でもあるのだ。
ともかく、どうするか決めるにしても情報が少なすぎる。
副商会長は考えをまとめる為にもと、「小麦を売ってくれ」と言い出した当人に詳細を求めた。
「ヤニックさん、しかしなぜ男爵国はそれほどに追加の小麦必要としているので?」
デーン男爵国をはじめとして、セルテ領の周辺では小麦が育ちにくい土地も多い。
亜麦などに比べればよっぽど寒さに強い小麦ではあるが、それでも限界はある。
気候的に寒冷な土地になればなる程、温暖な土地に比べれば圧倒的に作物が育たないのだ。
ゆえに、そうした国々は多くの小麦を輸入で賄っている。
ヤニックの故郷であるデーン男爵国もまたその一つだ。
つまり、デーン男爵国は毎年の大口顧客であり、今期もすでにいつも通りの小麦を買ったはずなのだ。
そこへ来てヤニックの注文だ。
なぜデーン男爵国はそれほどまでに小麦を必要とするのか。
しかしヤニックは静かに首を振ってハッキリとした回答は避ける。
「詳しくは申せません。これは機密に相当する情報なのです。
ですが、某所では小麦が不足する事態が予想されています。
ゆえに私がその不足するであろう小麦の買い付けを任されここに来たのです」
「むぅ……」
これは察しろ、と言う事か。
確かにヤニック氏は外国の外交官である。
であれば極秘の任務を帯びて飛び回ることもあるだろうし、であれば他国の、しかも一介の商人にその秘密を語るわけにもいかないだろう。
であれば、彼の思惑通り察するしかない。
フルニエ商会の副会長は思案する。
過日、鉄血姫と噂される新侯爵が就任してすぐ、デーン男爵国との国境砦を守る将軍が乱を起こした。
この背景にはデーン男爵国がいた、と言うのはもっぱらの噂である。
だがこの乱は新侯爵陛下の名の元に、瞬く間に平定された。
ここまで考えて副商会長はハッと顔を挙げた。
「デーン男爵国はリターンマッチを考えてるのか」と。
つまり、ここで求めているのはかの国の国民の為の食料ではなく、兵を挙げ維持するための軍事物資と言う事になる。
これ、売っちゃっていいのか?
副商会長は頭を悩ませる。
確かにこれはとてもタイミングのいい商談である。
ヤニック氏の求める小麦の量は、小国デーンにしては膨大であり、死蔵することになる小麦とほぼ同数となる。
提示されている価格は相場よりやや低いが、ここから交渉で吊り上げることもできるだろうし、ともすれば安くても捌けるだけ有難い。
しかし、と副商会長は頭を抱える。
これは自分の生まれ故郷であるセルテ領に対する裏切りなのではないか? と。
彼にも愛国心はある。
もちろん商会が第一ではあるが、その商業活動によって国が豊かになればなお良いし、出来ればそういう商いを心掛けたい、とは常々思っているのだ。
とはいえ、商会長の方針に従いつつ商会を救うのはこの道が最も最良の様な気がした。
まぁ、セルテ領民たちに対する信用は大きく失うことになるだろうが。
それでも背に腹は代えられないし……売ってしまうか?
大きく悩む。
とその時、ヤニックが立ち上がった。
「無理は承知でした。申し訳ございません。お困りのようですから、この話は無かったことに」
彼は少々苦笑いをしながら早口でそう言って、テーブルに広げた買い付けに関する資料をそそくさと仕舞い始める。
これは他にも買い付けの宛てがあると言う事か!?
いかん。これは大きなターニングポイントだぞ。
この冬、我がフルニエ商会が傾くか、それとも耐えるか。その瀬戸際だ。
副商会長は咄嗟に判断を下した。
「お待ちくださいヤニックさん。その小麦、我が商会でご用立てしましょう。
安心してお任せください!」
これにて商談成立である。
その後は商売上の契約書の取り交わしだ。
売買量や価格、輸送などに関する文書に、お互いが承認の判を押す。
この時、フルニエ副商会長は何か違和感を覚えた。
契約の内容に不備はないはずだ。ではなんだ?
お互いのサインと印が示された契約書を、首を傾げながらしげしげと眺める。
「あ、これか」
そして彼は気づいた。
ヤニック氏の印が、以前見たモノと違うのだ。
だがそれが何だというのか。
商売が成立した以上、彼としては在庫がお金に化けるというだけで大助かりなのである。
売国? もうこの際は今更だ。
「契約成立ですな。よろしければこの後、我が主に会ってはどうでしょう?」
さっきと打って変わり、にこやかに立ち上がったヤニックが握手を求めながらそんなことを言う。
「我が……主?」
これもまた大きな違和感だった。
この数時間後、セルテ領主城へ連れてこられたフルニエ商会副会長は、唖然とした。
ヤニックに紹介されたのはまごうこと無きこのセルテ領を治める鉄血姫エルシィ陛下腹心、鉄血宰相などともいわれるライネリオだったからだ。
「フルニエ商会さん。この度は良い取引ができたと、わが主はそう申しておりました」
そんな澄まし顔の青年から言葉に、副商会長は冷や汗をだらだら流しながら跪きながら、ぎくしゃくする首関節を何とかようやく動かし小声で隣のヤニック氏へ問いただす。
「ヤニックさん、これはいったい……?」
問われた当人は表情だけで驚いたという風に眉を上げ言葉を返した。
「おや? 私は一言も、デーン男爵国と言う名は出しませんでしたが……はて?」
つまりこれが示す答えは、ヤニックはすでにデーン男爵国の外交官ではなくセルテ候エルシィの配下にいると言う事であり、小麦が足りなくなりそうだという話はフルニエ商会が売り渋る情報がエルシィに伝わっていたと言う事であり、そしてフルニエ商会はその侯爵陛下に一時救われたと言う事になる。
やられた。
だが、これで売国しなくて済んだ。
フルニエ商会の副会長は腰砕けになる思いで、ただただ頭を垂れ続けた。
お国ではスパイ容疑で拘束されたヤニックさんでしたが、決死の逃亡を図りセルテ領でリクルートしてたのでした( ˘ω˘ )
続きは金曜に




