311チェレット商会
今日もエルシィ様でないんですわ_(:3」∠)_
マケーレの将軍降格、そして路司長任命から数日が経ったある日。
ここセルテ領内でもトップ集団に属する商会の長、チェレットは、ひと時の優雅な執務時間を過ごしていた。
少々腹の出たチェレットもそれなりにいい歳だし仕事を減らしたいと思っているが、それでも手広く商売を行っている限りは彼の仕事が減ることはない。
仕事が減るとしたらそれは彼の嫡男に地位を譲った時になるだろう。
だが、彼の嫡男はまだ頼りなく、チェレット会長の引退はまだまだ先になるだろう、と言うのが大勢の見方である。
そんな彼だが、今日も昼になれば取引相手との打ち合わせを兼ねた会食に行かねばならず、気が休まるのは結局のところ部下からの報告書を読んだり決裁したりする朝の執務時間くらいなのである。
まぁ、それも重大な報告があれば途端に精神がすり減る事態になるわけだが。
その日もチェレット会長は自らの運動不足を自覚しながらも昨晩積まれたばかりの報告書群を切り崩しに掛かっていた。
と、その時、執務室のドアがノックされ、彼よりもさらに年老いているが背筋のピンとしたスマートな男が入って来た。
「チェレット様。少々小耳に挟んだのですが……」
そのスマートな男は長年チェレットと共に商会を切り盛りしてきた筆頭番頭である。
ちなみに番頭とは営業経理など商会のあらゆる場面を預かる者であり、我々の社会において例えるなら取締役などに相当するだろうか。
この男が直接チェレットの執務室にやって来てこんなことを言い出すのは、いつも新たな商機が訪れた時だ。
ゆえにチェレットは大きな期待と仕事が増える憂鬱とを込めながら眉をキリリと引き締める。
「どうした。何があった?」
「は、それが……どうやら近々、大規模な街道整備が始まると」
「! 何だと!?」
番頭の老人が言い終わるや否や、チェレットは机をバンと叩いて立ち上がる。
これは彼にとって絶好の商機どころか、商売の大きな転換期とも言える話だった。
ここで少しだけチェレット商会の歴史を話しておこう。
チェレット商会は今でこそ百貨を扱う大商会だが、元をたどれば馬車や荷車を扱う小さな車屋だった。
だが馬車を動かすには車体自身の整備もさることながら、馬の管理にも割とお金がかかる。
そういう訳で景気の良い時はいいが、少し景気が悪く成るとコストの高い馬車は途端に売れなくなるのだ。
今のチェレット商会長が若い時分、冷害によって大規模な不作の年があり、かの商会も例のごとく経営難に陥った。
チェレットはここで一つの転換を迎える。
どうせこのままでは潰れると思ったチェレットは、思い切って売るほどある馬車を自ら動かして商売を始めた。
具体的に言えば不作で食い詰めた農民たちを雇い、大規模な商隊を組み、ハイラス伯国まで決死の仕入れ行商を行ったのだ。
同じ事を考える者もいくらかいたが、彼ほど大規模に馬車を動かせるものはそうそういなかった。
そしてこれが大成功。
かの商会は馬車の販売業から流通業に、そして仕入れから販売を一手に行える大商会へと変貌したのだった。
それから数十年。
チェレット商会は順調に成長し、今ではセルテ領にて押しも押されぬトップ集団である。
この商会に奉公すれば衣食住は割安で保障され、結婚すれば祝い金、高額な医療も福利厚生の名のもとに補助金ありきで受けることができ、万一労働災害によって死傷した場合でも充分な補償が出る。
希望すれば子も商会の教育を無料で受けることができ、優秀な成績を治めればそのまままた商会員として奉公することが叶うという。
そんな噂もまことしやかにささやかれるこの商会は、まさに小市民たちの夢の企業なのであった。
閑話休題。
流通業でも一流であると自負するチェレット商会だからこそ、大規模な街道改修が行われるという噂ひとつでも見逃すわけにはいかなかった。
道の良し悪しは馬車の運行を左右する。
素人は見落としがちだが、行商する者であれば誰でも気に留めずにはいられないだろうし、チェレット商会ほどになれば道の整備次第で利益の振り幅も大きくなるだろう。
「その話の信ぴょう性は?」
だからこそ、チェレットも慎重にならざるを得ない。
腹心を疑う訳ではないが、それでも確認は重要だ。
この問いを得て、番頭の老人は自信ありげに頷いた。
「はっ。この噂は各方面から入っておりますし、ダマナン家のボンが酒場で吹聴しているのが何よりかと」
「ダマナン家の……マケーレ将軍か。
いや将軍から降格されたとは聞いたが新しい人事は聞いてなかったな。
すると彼は築司へ異動か?」
「いえ、新設の路司の長だそうで」
「それが街道整備の為の新司所ということか」
チェレットは「ふむ」と考え込むようにうつむく。
彼は頭の中でここまでの情報を精査する。
信じていいか。どれくらいの規模になるか。そして当商会はどう動くか。
そして老番頭が決め手となるひとことを発する。
「情報の確度を高めるために少々銭を使いましたが、どうやらダマナン家も人集めを始めているようです」
「マケーレの実家。道路族が動くか!
これは……こちらも今動かねば機を損じるな……」
「その通りかと」
チェレットは「ふぅ」と落ち着くためにワザと大きな息をついて椅子に深く腰を下ろす。
下ろし、つぶやく。
「新しい侯爵陛下は中々モノが判っているようだな」
「鉄血姫などと呼ばれる苛烈な方と聞いております。なれば軍を迅速に動かすための整備かも知れませんな」
「なるほど。とは言え、軍が通ろうが商人が通ろうが路は路だ。
出来れば軍に準ずるような通行権を得たいところだ」
「それがあれば我が商会は三代先まで盤石でしょう」
脳内での計算を終え、チェレットはカッと目を見開く。
「……よし、急ぎ侯爵陛下に謁見の願いを出せ!」
「はっ。何か良い手土産も用意しましょう」
「任せたぞ。しくじるなよ」
商会の明るい未来を想像し、二人がニヤリと笑った。
次の更新は来週の金曜です
火曜は出張でよゆうがないので……