003姫と女神と救世主
古く質素だが品の良い調度品が整った部屋で、4つの姿が向き合っていた。
一つはまだ幼さを残す少女の姿になってしまった上島丈二。
皆は今の彼を「エルシィ」と呼んだ。
この春、八歳に成られた姫君である。。
一つは茶の長い髪を後ろでまとめた、メイドさんスタイルの女性。彼女はエルシィ姫の侍女で、名をキャリナと言うらしい。
おおよそ二〇歳前後だろう。
一つは軍人らしく短い髪の紺色詰襟を着た青年剣士。彼はエルシィ姫の近衛士で、名をヘイナルと言うらしい。
だいたい一五歳くらいだろうか。
そして最後の一つは、今の丈二と同じ姿をした、つまりエルシィ姫本人だ。
彼女は透けた姿で足元だけが揺らいだ、まるで幽霊の様な姿である。
その幽霊エルシィが、宙にて腕を組んで三人を見下ろした。
「キャリナもヘイナルも控えなさい。これなるは女神さまより遣わされた救世主さまなのです」
「は?」
そんなエルシィの言葉に困惑の声を上げたのは、側仕えの二人だけではなく、丈二もだった。
それから、呆然とする三人に、幽霊エルシィは昨晩の自分に起こった奇跡を語り始めるのだった。
ジズ公国の姫君として生を受けたエルシィは、生来病弱であった。
ゆえにその晩も、数日前からの発熱が収まらずうなされる様にベッドへと横たわっていた。
「わたくし、なんで生まれてきたのかしら」
息も切れ切れ、熱から来る苦しさに悶えるほどの元気もなく、エルシィはひとり呟く。
だが侍女も下がった夜半過ぎ。
そんな呟きに応えるモノなど誰もいない。
はずだった。
「なんでか、は知らないけど、貴方の生に意味を持たせることは出来るわ」
それは天上より降り注ぐような、静かで澄んだ声だった。
「誰?」
エルシィは閉じていた眼を一生懸命に開けて声の主を探す。
するとその視線に応えるかのように、ベッドの天蓋付近へ光の粒が集まり人の形を成した。
それは美しい白ベールをかぶった女性だった。
「……女神さま?」
現れた超常の神々しさに、エルシィは思わずつぶやく。
白ベールの女性は、それにニコリと笑うことで返す。
「エルシィ。貴方はもうすぐ喜びの泉へ召されるでしょう」
喜びの泉、とは神々が住まうとされる、言わば天国の事だ。
これはつまり、エルシィは間もなく死ぬだろう、という予言である。
エルシィはゆっくりと目を閉じ、そして諦めたように息を吐いた。
「やはり、長生きは出来ないと聞いていましたが……」
言いかけたところで喉が詰まった。
悲しい、寂しい、悔しい、妬ましい。
様々な思いが涙とともにこみ上げた。
「貴方の生の終焉は、私にはどうしようもありません。ただ、貴方が生きてきた意味を与えることは出来ます」
「それは、何ですか? 女神さま、どうすれば良いのですか?」
縋るように、残された力を振り絞るように、エルシィは半身を起こして、光の粒の様な女性へと手を伸ばす。
「わたくしの、生に意味? ……て、何ですか?」
女神と呼ばれたその妖しは、エルシィの小さな手を握って応えた。
「この世界は危機に向かっています」
エルシィの問いを聞いてなのか、白ベールの女性は静かに語り始めた。
意味も解らず熱で回らない頭で、エルシィは彼女の話に耳を傾けた。
「まもなく、この世界は危機に瀕します。それまでに世界をあるべき姿にしなければなりません」
「危機って、何ですか?」
またもやエルシィの問いはニコリと流される。
だが、彼女の生については、この後すぐに語られた。
「世界を正す為、救世主を遣わします。貴方は喜びの泉へ赴き、救世主へとその身体を捧げるのです」
「ささげる?」
「そう、救世主はこの世で身体を持ちません。ですので貴方の身体に降ろし、そしてかの救世主が世界を正す一端となるでしょう」
まだ幼く、病弱で、何一つだって自分一人では為し得ないエルシィにとって、それは胸のすく様な話だった。
自分は死ぬが、エルシィと言う名と身体が世界を救う。
なんと壮大な話だろう。
だがすぐに懸念が彼女の表情に影を落とした。
「でもこの身体は生まれつき病弱で、こんな身体を救世主さまに捧げても困るのではないでしょうか?」
今まさに生を終えようとするエルシィの身体。
これは生まれた時分より「長くはない」と影で言われてきたものだ。
だが白いベールの女は静かに首を振った。
「あなたの生に影を落とすのは身体ではありません。あなたは生まれつき、魂に欠損を抱えているのです」
「では、この身体を得た救世主さまは、何の憂いもなく世界をお救いになるのですね?」
「ええ、彼ならきっとやり遂げるでしょう」
エルシィは弱々しくも晴れ晴れしい表情で笑った。
「女神さま。この身体を救世主さまに捧げます。どうぞこの世界をお救いください」
「大変結構です。では目を瞑り、眠りなさい。せめて苦しまず逝ける様に取り計らいましょう」
「ありがとうございます」
そしてエルシィは目を瞑り、暗い闇の中へと堕ちて行った。
「と、言う訳なの」
一通り事情を話し、幽霊エルシィは締めくくった。
唖然として聞いていた面々だったが、侍女キャリナは次第に苦々しく悔しげな表情に変わっていった。
それは自分がお世話してきた姫の死に際し、何もして差し上げられなかったという後悔や、幼い姫に対する仕打ちに対する怒りだった。
「でも、姫様はここにいるではありませんか。本来ならば、泉下へ旅立つはずではありませんか」
モヤモヤする気持ちのぶつけどころが思い当たらず、キャリナはつい、自らの主人へと愚痴めいた言葉を漏らしていた。
エルシィは苦笑いをこぼして首を振った。
「もちろんこれから往きます。でも、それは救世主さまを貴方たちに託してからです。そうでないとわたくし、安心して往けません」
「なるほど、それが姫様の心残り、と言う訳ですね」
神妙な顔で近衛士ヘイナルが頷くと、エルシィもまた「正解です」と小さく笑って頷き返した。
ヘイナルとて納得したわけではない。
自分が守ってきた幼い姫との突然の別れは、それは深い悲しみを伴うものだ。
だが彼は近衛士だ。
非常の際にも冷静に、時には非情にならなければならない。
その為に、若くして感情と行動を切り離す術を叩きこまれていた。
未熟なれど、その技はキャリナに比べるべくもない。
ジズ公国を治める大公家の近衛に選ばれるというのは、それだけ優秀なのだ。
だからこそ、彼は為すべきこととして、姫君の最期の願いを叶え、そして安心して天上へと向かって貰わなければならない。
そう自らを律した。
「ではこのヘイナルに、万事お任せください」
ヘイナルは出来るだけ笑顔を作って跪いた。
そんな同僚の姿にハッとしたキャリナも、それに倣う。
彼女とて、大公家の姫に仕える侍女なのだ。
「エルシィ様。私もまた、ヘイナルと共に救世主様に仕えましょう。姫様が安心して往かれますよう」
「では任せます」
こうして主従の誓いは成されたが、エルシィは最後に爆弾を落とした。
「そうそう、救世主さまの事はエルシィとして扱ってくださいましね?」
側仕えの二人は目を剥く。
「なぜですか! 姫の死を隠せと仰せですか」
こうなれば救世主の降臨とエルシィ姫の聖なる行いを大々的に国民へと伝えよう。そう目論んでいたキャリナは反射的に顔を上げた。
だがエルシィはクスクスと笑って静かに首を振るのだ。
「それが女神さまの宣託であり、わたくしの望みなのです」
納得は出来ないが、それが神と主の仰せなら仕方がない。
キャリナは奥歯をかみしめるようにして言葉を飲み込んだ。
「では往きます。貴方たちに女神さまのご加護がありますように」
エルシィは二人の頭を見下ろして柔らかに祈りを捧げ、ゆっくりと光の粒となって宙に消えていった。
二人は消えゆく姿をしばらく間、祈りながら見送った。
そして残されたエルシィ姫の姿をした丈二は、困惑に顔をしかめたまま呟いた。
「えーと、救世主? つまり、どうしたらいいの」