281主君の不在
「まさかまたカエデの様な刺客が……」
ギリギリと歯ぎしりしながら空を睨みつけたホーテン卿が呟く。
今にも天に向かって愛用のグレイブを投げつけんばかりの勢いである。
「落ち着けホーテン」
吹きあがる怒りの気に並び立つスプレンド卿はかえって冷静になった。
だがそんな冷静なスプレンド卿にますますいきり立つホーテンだ。
「これが落ち着いてられるか。姫様の身に何かあったら……仇なした者は目にもの見せてくれるからなぁ」
「だから落ち着けホーテン。エルシィ様に何かあったのには違いないだろうが、今我々のすべきことはなさねばならんだろう!」
ホーテン卿がエルシィのことをまるで孫のように猫っ可愛がりしているのは知っているが……、と少々呆れにも似た感想を抱きつつも、スプレンドは一層大きな声でたしなめた。
さすがにホーテンもこれで我に返る。
「む……確かにそうであった。
いささか取り乱した。すまぬなスプレンド」
「いいよ。気持ちはわからんでもない」
と言いつつも、「自分にはここまで我を忘れるほど大切な人がいるか」と、つい自問してみたくなるスプレンド卿であった。
「とにかく、我々は我々のなすべきことをしよう」
「うむ。ひとまず、デーン男爵国に逆侵攻でもかけるか?」
ホーテンの言葉に一瞬心動かされたスプレンド卿だったが、しばし無言で考えてから首を横に振った。
「さすがに今はやめておこう。まずは戦後処理だな。
砦勢の武装解除と捕縛。あとエルシィ様からも言われているだろう?」
「おお、デーン男爵国の外交官を捕らえるのだったか。
だがあれは……」
言いかけたところで彼らの背後に影が差した。
気配は知った者だったので、二人は驚きもせずに振り返る。
そこには顔を隠す地味な色のいで立ちをしたねこ耳の男がいた。
男は縄でぐるぐる巻きにした中年男を小脇に抱えている。
「ホーテン卿、エルシィ様のご指示にあった外交官の捕縛はこれに」
「むっ! さすがに仕事が早いな」
ねこ耳男の名はアオハダ。アントール忍衆棟梁である。
「さて、姫様が心配ではあるが、我々も自分の仕事にかかるとするか」
「ああ、そうしよう」
二人、いやアオハダを加えてた三人は、もう一度空を仰いでから、それぞれの仕事に取り掛かるのだった。
さて、当のエルシィはどうなったか。
少しだけ時間を巻き戻し、そう、ホーテン卿がダプラ将軍を叩き斬ったその少し前の領都主城に戻って話をしよう。
「エルシィ様!」
その時、真っ先に異変に気付いたのはキャリナだった。
キャリナはエルシィの侍女頭である。
これはエルシィの中身が上島丈二に変わる前からであり、彼女は職務上、また心情的にも常にエルシィへ心配りをしていた。
ゆえに、真っ先に気付いた。
まずはじめに、エルシィの身体が傾いた。
エルシィ自身、悪ふざけでダラダラとした態度を見せることも多いので、最初はそういう類のものだとキャリナも思っていた。
が、すぐにそれとは違うと判る。
なぜならエルシィの身体に生気が感じられなかったからだ。
キャリナは慌ててエルシィの小さな身体を支えようと駆け寄る。
だが、間に合わなかった。
エルシィはゆっくりと、崩れ落ちる様に椅子から滑り落ち、その身体を絨毯の上に横たえた。
「エルシィ様!?」
今、侯爵執務室にいるのはキャリナ他、忍びにして侍女見習いのカエデや近衛として控えるヘイナル、フレヤ、アベルである。
皆が皆、倒れたエルシィに驚き目を見張り、そして駆け寄った。
特にキャリナやヘイナルの脳裏によぎったのは、まだベッドからあまり離れられなかったころのエルシィだ。
ここのところ、というかエルシィの魂が女神の救世主と変わってからは健康で活発な様子であったから安心していたが、あの頃はいつだって「今日にもお隠れなさるのでは」と心を痛めていたはずである。
あの心痛がまたよみがえった。
だから、いつもであれば真っ先に動きそうな二人は数瞬だが硬直した。
「医者だ! この城にも典医くらいいるだろう!?」
「す、すぐ連れてくる。エルシィ様を頼みます!」
他の者も同様に、咄嗟の行動ができず硬直してはいたが、最初に回復したのはアベルで、その声によってフレヤがすぐ跳ね戻った。
フレヤはそのまま矢の如き速さで執務室を辞する。
キャリナやヘイナルもまたそのすぐ後には正気に戻り、エルシィを抱きかかえるように起こした。
エルシィの首元に触れれば体温こそ低いが確かに鼓動は感じられるし、静穏な吐息も聞こえる。
二人は幾分、ホッとした。
「キャリナ、すぐに寝室の用意を」
「はい、グーニーが整えてるかと思いますが、確認してまいります。
カエデはそのままエルシィ様についていて」
「了解にゃ」
ヘイナルがそのままエルシィを抱えて立ち上がり、キャリナは侍女見習いに指示を出してから急ぎ足で退出した。
皆がエルシィを抱えたヘイナルと共に執務室を出ていく中、アベルはエルシィが着いていた執務机へと目を向ける。
そこには執務の為の様々な資料や報告書の他、気を失った時に手放したのであろう元帥杖が転がっていた。
アベルはその杖をそっと手に取り、そして掲げてみる。
もちろん、何も起きない。
それはアベルの先祖父であるティタノヴィア神とエルシィによって交わされた契約の証。
ゆえに他の者が振るったとて、ただの装飾された杖以外の効果は発揮されない。
解っていたが一度確認しておきたかったのだ。
彼女の衛に着くならば、これが奪われる可能性も考える必要があるから。
ひとまず自分の思った通りの結果に満足しつつ、アベルは杖を自分のベルトに下げ、エルシィと側仕えたちの後を追って部屋から出た。
そろそろこの章も終わりです
続きは来週の火曜日に




