027白河の清きに魚も
とは言え、まだはっきり証拠が出てしまったわけではないし、この日誌だってまだ判を押して提出されてしまったものではない。
それに罪が確定したとして、「この程度」とも言えるのだ。
そもそも丈二のいた世界でもこの程度の不正は当たり前にあった。
当然、日本やアメリカと言った先進国ではほとんどない。
あればニュースで大きく取り上げられるくらいには稀である。
ところが少し出遅れている国に行くと、役人が公的予算の何割かを懐に入れたり、警官が賄賂を要求してくることなど当たり前にあったりするのだ。
彼らの感覚ではあれは不正ではなく、良い仕事をするためのチップなのだそうだ。
その程度にはありふれていた行為だった。
後はこの国において、この小さな不正がどの程度の重みをもつ行為なのか。
そしてこの国の支配階級の一族であるエルシィがそれを裁くべきなのか。
それが問題なのである。
とりあえず自分だけで判断するのは危険かな。
と小さくと息を吐き、エルシィは何でもないとばかりに笑顔を浮かべて役人に振り返った。
「いえ、何でもありません。次は現場を視察しましょう」
小役人はそんな様子にホッとしたようで、心配顔から一転の朗らかな表情になって胸を撫でおろした。
役人が先導して現場へ進む途中、ヘイナルが少し厳しい顔を寄せてくる。
「姫様、何かございましたか?」
見上げればその疑問はキャリナも同様に感じているらしく、二人の顔が並んでエルシィを見ていた。
エルシィはどう言ったものか、と少し悩んだがすぐに首を振る。
「この件は後ほど」
と、小声で言って治めるのだった。
その後はいつも通りに舗装されていく道を眺める。
眺めながら、つい工夫を数えてしまうのは仕方ない。
そうしてしばらく経ったところで、エルシィは急に思い立ったように白々しく手を叩いた。
「そう言えば、今日はクレタ先生とお約束しているのを忘れておりました。視察はこれまでにしましょう」
そんなことを急に言い出したのでフレヤなどは不思議そうに首を傾げたが、すぐにヘイナルが厳しい目で彼女をたしなめる。
またキャリナは努めて表情を消したまま「仰せのままに」と言って馬車の準備に向かった。
「皆よく働いてくれているようで感心いたしました。この調子でケガの無いよう進めてください」
エルシィはお嬢様スマイルを振りまいて役人や警士たちに言い、先行したキャリナの後を追う。
警護の為、すぐその歩みに従ったヘイナルは、馬車に近付いたところで小声で訊ねた。
「どこへ向かいますか?」
この問いが耳に入ったのは、当のエルシィともう一人の近衛士フレヤだけだ。
フレヤはまたすぐに首を傾げた。
「ヘイナル、姫様は『クレタ先生とお約束』と申されたのだから、向かうのは大公館ではありませんか?」
そんな問いに首を振って否定したのは、ヘイナルだけでなくエルシィもだった。
「内司府の合同庁舎へお願いします」
ヘイナルと、馬車の準備を終えて戻ったキャリナは頷き、フレヤだけはやはり疑問符を頭の上に浮かべていた。
「ほんの少しだけ、違和感があるのです。ただそれを確認するだけですよ」
そして一行は馬車と馬にそれぞれ乗り、城へと向けて出発した。
城内第二層にある合同庁舎へやって来た一行は、まずロビーにあるいくつかの打ち合わせブースの一つを占有した。
確保したのは一番奥で、人気が少ない場所だ。
「それで姫様。何があったのですか?」
主が腰を落ち着け、近衛士による視線で周囲の聞き耳を排除した上で、ヘイナルが小声で訊ねる。
その様子に、キャリナと、未だよく判っていないフレヤも額を寄せた。
この時点でヘイナルやキャリナも薄々判っている。
と言うかあの書類を見て怪訝そうに首を傾げたエルシィを見て察しない方が鈍いと言わざるを得ない。
などと少し呆れを含んだ視線をフレヤに送りながら、二人はエルシィが口を開くのを待った。
エルシィは少しだけ考えてから、人差し指を宙に漂わせながら話を始める。
「例えばですね、この国では横領とか賄賂とか、そういう不正はどの程度あって、どの様な罪に問われるのでしょう?」
なるべく穏便に、当たり障りないように訊ねようとしたのだが、ヘイナルやキャリナはこれだけでもう目を覆って天井を仰ぎ見た。
「やはり横領ですか。姫様の様子でそうかとは思っていましたが」
「何もエルシィ様の目に触れるところでやらなくても」
ヘイナルの言葉は単純に罪に対する嫌悪感が見て取れたが、キャリナのそれは少し違うように感じた。
ただそこを今追及する必要はないと思い、エルシィは慌てて手でかき消すように虚空を混ぜる。
「いえいえ、まだそうと決まったわけではないのです。もしかして、万が一にもそう言うことはあるかも。と言う程度でして」
そんなエルシィの気持ちを汲んでか、キャリナは気を落ち着ける様に一つ息を吐く。
「お恥ずかしい話ですが、わが国でも稀にそう言った不正が発覚します。罪の軽重は立場や金額にもよりますので一概には言えませんが……」
少し言い難そうなキャリナだったが、エルシィからすれば別に気に病むようなことでもない。
先にも述べた通り、小さな不正は丈二の世界でもありふれていたからだ。
まぁありふれていたからそれで良し。と言う訳でもないが、『水清ければ魚棲まず』という言葉もある。
ようは程度と風土の問題なのだ。
だが、この国でも「稀」であるというなら取り締まって困ることも無いだろう。
と言うか体制側の人間として取り締まる必要があるだろう。
エルシィは「よし」と思い立って側仕えたちを見回した。
「ではこれから不正があるのかどうかを確認することにいたします」
彼女の言葉に、ヘイナルとキャリナは真剣な表情で頷いた。
ただ事の次第を理解し始めたらしいフレヤの表情だけは、いまいち読めなかった。