261グリテン半島の眠れない夜
快く臣従の件を受け入れてもらえた幼女男爵とその少年侍従は、晴れ晴れとした顔で去って行った。
これからはセルテ候エルシィの配下として、かの男爵領とその海賊……いや、艦隊を切り盛りしていくために政を変えていかねばならない。
彼女とてこれから幾らか忙しくなるだろう。
特に、バレッタによって念入りに壊滅させられた主力艦隊の立て直しは急務である。
とは言え、その費用の半分くらいは、親分となったエルシィから拠出されるので頭痛の種は少ない方だ。
本当に頭が痛いのはエルシィの方だった。
「また、見るべきところが増えてしまいましたね?」
「……大丈夫。男爵国はあくまで属国扱いですから。
わたくしが面倒見なきゃいけないわけじゃありませんから」
キャリナの言葉から震え声で全力で目を逸らすエルシィであった。
レイティル幼女男爵が去った後に残ったのは、元のメンバーに加えて海運、海防、艦隊担当のバレッタだ。
「それでねお姫ちゃん。ちょっと相談があるのよ」
バレッタは普段見せないような深刻そうな顔で、ため息交じりに口を開いた。
「トルペードが避けられた?」
「そうなのよね。生れてはじめてよ」
先の海戦についてその詳細を話しつつ、次第にそれはバレッタの悩みに行きつく。
すなわち、バレッタが一撃必殺として振るっている神の御業、トルペードがレイティル率いる艦隊にやり過ごされたということだ。
「まさかあのスピードを? ヴィーク男爵国の艦はバケモノですか」
「いえね? 男爵ちゃんは、航跡が見えるから遠ければ避けるのは簡単じゃ、って言ってたわ」
「なるほど、航跡。でしたか」
航跡。つまりトルペードが通った後の海中に引かれる白い泡の線だ。
これがあるからトルペードがほぼ真っすぐに進むという性質を見破られ、なおかつ、早い段階で見つけることができればその進路を読むことがたやすくなるという訳だ。
「今までは大イカさんなどが相手だったから、見破られることもなかったわけですね」
「……」
エルシィがそう分析して呟くと、バレッタは「今気づいた」という顔で手の平で口元を覆った。
まぁ、イカの名誉のために言っておくが、かの生物の知能は六歳児並と言われている。
つまり、レイティルと同等と言えるだろう。
であるなら、イカにだってレイティルと同様のことができるのが道理である。
もっとも、トルペードの性質を見破ったのは少年侍従の方だというので、イカにバレる心配は無いのかもしれないが。
ともかく、確かにこれから人間の艦を相手にするなら、何か対策が必要だろう。
さて、セルテ主城の執務室でこのような会話がなされて、しばらく後のことだ。
セルテ候領の北西に伸びたグリテン半島の先の方にあるヘルダム子爵国に場面を映そうと思う。
この国もまた寒冷地であるために豊かとはいえない。
それでもヴィーク男爵国よりは南にあり、また国土もかの男爵国の三、四倍はある為、何とか切り盛りしていけるだけは作物の収穫ができている。
そんな国だ。
そのヘルダム子爵国の主城にて、かの子爵がいつも通り政務を執っていると執務室の扉をノックする者があった。
侍従が手にしていた書類をわきに置いて取次ぎに出る。
すると扉の向こうにいた近衛士が侍従に告げる。
「ガルダル男爵様がおいでです」
「おお、来たのかー。お通して」
ここは取次ぎ同士の会話を経てから子爵が返答する場面ではあったが、ヘルダム子爵はそういう細かいことを気にする性質ではなかった。
ぶっちゃければ、とても気楽で気さくな人物だった。
近衛士は「はっ」と短く返事をすると、すぐにその後ろに待っていた厳めしい中年男を執務室に案内した。
「久しぶりだね、ガルダルの」
「ふむ、かれこれ一年ぶりになるか。ヘルダムの」
やって来たガルダル男爵は、ここヘルダム子爵国の南東、つまりグリテン半島の付け根側にして、セルテ候領に接した位置にあるガルダル男爵国の国主である。
対してヘルダム子爵は当然ヘルダム子爵国の国主。
つまりは隣国同士のトップ会談、ということになる。
ヘルダム子爵は座を執務机から応接セットの方へと移して、ガルダル男爵にも着席を勧める。
ガルダル男爵は素直に従い、しばし二人は無言で向き合ったまま、侍従の入れるハーブ茶を待った。
「それで、今日はどうしたんだい?」
お茶で一息ついたところを見計らって、ヘルダム子爵がそう切り出す。
何か相談があるので行く。
という先ぶれは貰っているので、話があるのは判っているのだ。
ガルダル男爵は厳めしい顔をさらにしかめつつ、手にしていたティーカップを静かに置いた。
「セルテ侯国がかの鉄血姫に降ったのは知っているな?」
「ああ、まったく恐ろしいね。
つい半年も経たない前にハイラス伯国を降したばかりだろう。
どこまで領土を広げるつもりやら」
鉄血姫とは、とはジズ大公家が娘であるエルシィのことだ。
春の終わりの雨季の頃、ハイラス伯国がジズリオ島に攻め込み、その逆撃をくらってジズ公国の領土となったのは記憶に新しく、その反撃の指揮を執ったのがかの鉄血姫とあだ名されるエルシィなのだ。
「鉄血姫とは、いったい誰が呼んだのか判らないけどよく言ったものだね。
『かの姫の身体には赤い血ではなく、溶解した灼熱の鉄が流れているに違いない』だったかな」
それはエルシィの行いの苛烈さを表して、その武威に触れた者が言った言葉とされている。
まぁ実際、彼女の生の性格に触れたならそんな言葉で表すことも無いのだろうが。
ともかく、対外的にエルシィはそのように言われているのである。
「ガルダル男爵も大変だね。
国境を接するセルテ侯国がそうなっては、いつ君のところにも来るか分かったものじゃない」
「そうだな……。
旧セルテ候は領土的野心を持たず、友好的とは言わんが争うこともなかった。
だが国主が変わったなら今後どうなることか。
しかもそれがあの大公家の娘ではな」
頭が痛い風でガルダル男爵はため息をつき、続いてその厳しい目を子爵に向けた。
「だがヘルダム子爵も悠長なことも言ってられんぞ」
「そうかい? 少なくともウチは君のところがやられてからの話だろう?
まぁ援軍の相談なら承るよ」
「そうではない」
「? じゃぁなんだというんだ?」
ガルダル男爵は気楽そうな子爵を呆れた目で見つつ、それでも軍事的に結びつけるなら良いと押し黙ってお茶をすすった。
すすり、一息ついてまた口を開いた。
「ヴィーク男爵国が鉄血姫に臣従したそうだ」
「はぁ!?」
ヴィーク男爵国は彼らが領土に持つグリテン半島の、さらに北西に浮かぶ島国だ。
半島ですら寒すぎて麦があまりとれないというのに、そのさらに北にあるヴィーク男爵国はロクに麦も育たない、まさに最貧国と言っていいだろう。
では、そのヴィーク男爵国がいかにして国を保っているかと言えば、強力な艦隊を整えての海賊行為にて、である。
回りを海に接したグリテン半島に住む彼らにとっても他人事ではない。
ヘルダム子爵国も、ガルダル男爵国も、ヴィークの海賊には毎年それなりの財貨をやられているのだ。
その頭の痛い海賊が、かの鉄血姫に配下に降った。
これはもうヘルダム子爵も「国境が接していないもんね」などと悠長に構えている場合ではない。
彼らはセルテ領とヴィーク男爵国に挟まれたのだ。
「どどど、どうするんだ。どうすればいい?」
さすがにお気楽なヘルダム子爵も慌てて周囲を見回す。
だが、押し黙ったガルダル男爵をはじめ、執務室にいる侍従も近衛士も、不安な顔で彼を見るだけだった。
そう、この国の舵取りをするのは、ヘルダム子爵の役目なのである。
「どうするも何も、しばらくは様子を見つつ、いつでも対応できるように準備しておくしかあるまい」
「準備ってなんだ? 戦か?」
やっと口を開いたガルダル男爵の言に、子爵はビクッと肩を震わせる。
「戦って勝てる自信があるのか?」
と、落ち着き払ったように見える男爵はそう返答をする。
実際には諦観による落ち着きだ。
しばし考え、ヘルダム子爵は脱力したように応接セットのソファーに身を沈める。
「ない……な。
ヴィークの海賊ですら勝てないのに。そんな自信、あるわけない」
彼らの眠れない夜は、これからしばらく続くことになる。
金曜日は忙しい仕事が入っているので更新をお休みさせていただきます
次は来週の火曜日です




