026現場視察と日誌
「さて、城に戻って執務の続きに掛かるとしよう」
ヨルディス陛下を乗せた帆船が豆粒のように小さくなるまで見送ったところで、カスペル殿下は一つ手を叩いてそう言った。
兄殿下の侍従や近衛士が出発の準備を始める。
エルシィの近衛士であるヘイナルとフレヤもまた、出発の為に自分たちの馬を交代で引き取りに行く。
「キャリナは何か準備しなくて良いのです?」
ふと、エルシィのそばから離れようとしない侍女に向けて首を傾げてみるが、彼女は平素のままに首を振った。
「馬車の準備はカスペル殿下の侍従たちがしてくださいますので、私はここで彼らの分まで御用側仕えを果たします」
つまり、カスペル殿下から何か言葉があれば、今は侍従たちの代わりにキャリナが役目を果たす、と言うことらしい。
まぁ心得ている兄殿下はこの場で特に何をするわけでもなく、大人しく待っていた。
「エルシィはこの後どうするのだい? 今日は会合を回していないはずだけど」
そのカスペル殿下が愛しの妹を振り返ってそう訊ねる。
そんな問いに「もちろん城に戻りますよね?」と言いたげなキャリナの目をあえて無視して、エルシィはにぱっと笑った。
「せっかく城下まで来ましたから、このまま視察へ行きたいと存じます」
「熱心だね」
「ふふふ、お仕事は手を抜かない主義なのです」
微笑ましく言葉を交わす兄妹とは裏腹に、またあの退屈な道路普請を眺めるのか、とヘイナル達は諦観の溜息を吐いた。
せっかくも何も、初めから行くつもりだったくせに。
とは誰も口には出さなかった。
馬車の列から一台だけ離れて街はずれへと向かう。
エルシィとキャリナを乗せた馬車である。
その前後にはヘイナルとフレヤが騎乗して護衛に着く。
ちなみに御者は城で働く小者の一人で、エルシィは名前も知らない。
ゴトゴトと揺れる車内で、キャリナはふと気になったことを訊ねることにした。
「エルシィ様はなぜそこまでして道路普請を視察するのです?」
「ですから道路は軍事上の……」
訊かれてすぐ、先日の言葉を繰り返すように口を開いたエルシィだったが、それはすぐにさえぎられる。
「建前は良いです。大事なのは解りますが、それなら完成後に確認するのでもよろしいではありませんか」
そこで不具合を見つけた場合は面倒になりますが、と付け加える。
確かにキャリナの言う通りであった。
大事なのは兵を運ぶ道路がちゃんとできているか、であり、その工事をエルシィが監視するように眺めている必要は全くない。
むしろ姫殿下が現場近くで見張っていれば、工夫たちはやりにくくてしようがないだろう。
そんなぶっちゃけられた問いに、エルシィは少し考えてから答えた。
「まぁ、何が商売のタネになるか判りませんからね」
そんな言葉にキャリナは眉を八の字に寄せる。
「商売、ですか?」
「いえ、商売は言葉の綾。わたくし、商社マンですから。
ただ、思わぬところで思わぬ知識が役に立つことは、稀に良くあることなのです」
「稀なのに良くあるのですね」
ショウシャマンとやらが何か解らないが、それでもエルシィの言いたいことはおおよそ理解できたのでキャリナはホッとした。
新たに自分の主人となったこの少女の思惑が、これまでいまいち解っていなかったのだ。
この解らないというのは案外不安なもので、不安がたまると余計なことを考えてしまいがちにもなる。
これでやたらと資料や現場を見たがるエルシィの心を知ることが出来、キャリナも一安心。と言ったところだ。
まぁ、あちこち動き回る小さな主人と言うのは、それはそれで他の不安も生まれる訳なのだが。
そうして主従の理解を深めつつ、馬車は街外れの道路普請現場へと辿り着く。
この現場は先々日の会合で上がった幾つかの現場のうちの一つだ。
ジズリオ島には、島の東岸にあるこの城下街以外にも二つの街がある。
あとの二つはそれぞれ南側と北西側だ。
今日見に来たこの現場は、島の南側にある街へと続く街道の一つである。
街道自体は古くからあるのだが、古いがためにあちこちに穴が目立つようになってきたのだ。
それゆえの再舗装工事であった。
「これはこれは姫様ではありませんか。今日はもういらっしゃらないとばかり」
馬車を迎えて跪くのは、築司の役人と実際に普請作業を監督する警士班長だ。
どちらも先の会合で見た顔だが、さすがに名前は憶えていなかった。
ふふふ、今日はお母さまの見送りだから来ないと思った? いつから来ないと錯覚していた?
などとちょっと心で微笑みながら淑やかに馬車から降りる。
もちろんキャリナに手を取られながらだ。
「はい、本日はここを視察します。よしなに願いますね」
そんなエルシィの言葉に、築司の役人はなぜか気まずそうに。警士班長は少し眉をひそめて顔を伏せた。
おー。ここではあまり歓迎されてないな。
本人たちは隠せているつもりなのだろうが傍から見ればあからさまだ。
エルシィもまた苦笑いを隠しながら小さく溜息を吐いた。
「さぁ、わたくしに構わず、作業に戻ってくださいまし」
続けてそう言い渡し、エルシィは一路、現場の休憩小屋へと向かう。
このパターンはいつもの通りなので、側仕えと築司の役人も黙ってそれに従った。
これまたパターン通りなのだが、ここで現場へと別れ行く警士班長は、どこかホッとした風で、それでいて嘲笑を含んだ鼻笑いが漏れて見える。
あれ? なんかちょっと馬鹿にされてるかな。
少しムッとしたが、まぁ八歳児が仕事できる素振りで現場視察などしているのだから、いい大人からすれば失笑も禁じ得ないのだろう。
そう納得して気を紛らせた。
さて、今向かっている小屋は現場の移動と共に何度も解体しては組み立てを繰り返す簡素なものだ。
休憩小屋の名の通り工夫や警士たちが仕事の合間に休憩を取るためのモノだが、それ以外にも資材の保管や、担当役人の一時的な事務所としても機能する。
休憩小屋へ入ったエルシィがやることはいつも同じだ。
まず清掃が行き届いているかをチェックする。
これはだいたい不合格である。
そもそも道路工事の現場なので、皆が皆、工事に掛かりきりであり、掃除などは眼中にない。
したがって汚いのが当たり前だった。
キャリナなどは毎度眉をしかめて「このような所にエルシィ様は入るべきではありません」と言ってはばからない。
だが今日はさすがに先日、先々日の現場と比べれば幾らか掃除されていた。
「エルシィ様が順にいらっしゃるだろうということで、各現場が気を付けるようになりました」
と、担当役人が自慢げに語った。
「とても良いことです。これからも『整理』『整頓』『清掃』『清潔』に心掛けてください」
エルシィもまた満足そうに頷いた。
続いて現場事務所となっている部屋に入る。
一応仮とは言え事務を行えるようになっているので一つだけ机がある。
付いて来ている役人の為のものだ。
エルシィは黙ってここに近付き、机上にある真新しい書類を手に取った。
これは今日の日誌である。
普請にかかわる事故や進捗、またその日の支出などがまとめられている。
今日の日誌なのでまだ完成はしていないが、特に事故や事件が無ければこのまま提出されるだろう。と言う程度には仕上がっていた。
エルシィはこれをパっと流して読む。
「ん?」
読んで、違和感を覚えて小さな声を上げた。
なんだろう。
少し首を傾げながらひとつづつ項目を精査する。
これに書かれているのは「作業予定」「会計報告」「その他事件事故」などだ。
もちろん全てが本日の事柄のはずである。
その中で気になったのは「会計報告」の合計金額だった。
これも大雑把なもので、購入品と人工の合計金額が書かれているのみだ。
人工とは、簡単に言えば作業にかかった人件費のことである。
その人件費が先日見た同現場の日誌と違ったのだ。
まぁ日々の細かい金額が違うなど当たり前にあることなので、気にするまでも無い。
そう思いつつも、なぜかエルシィには気になったのだ。
なんか、嫌なにおいが少しだけするんだよね。
そんな思いの裏には、さっき見た警士班長の失笑が脳裏にちらついていた。
「どうかされましたか?」
と、そんなエルシィの様子に慌てて役人が寄って来る。
寄って来て手元に本日の日誌が握られていることを確認して蒼ざめた。
この仕草。黒っすね。
エルシィは無言のまま半眼で納得してしまった。