023お仕事はじめ
翌日の朝食はまたカスペル兄殿下とエルシィは二人で摂った。
食事が終わったところでカスペル殿下に呼び止められて、お茶が給される。
「母上の出発は二日後だそうで、もう今日から準備にかかりきりになる。
だから私は母上の執務を引き継がなければいけないし、エルシィには私のやっていた仕事を引き継いでもらわなければいけないんだ」
お茶をチビチビ飲んでいると、カスペル殿下が申し訳なさそうに言い出した。
ヨルディス陛下の代わりをしなければいけない、とは昨夜聞いていたので特に驚きはない。
が、カスペル殿下からすれば、まだ一〇歳にも満たない妹に自分の代わりをさせるというのは、かなり気が引ける案件だったようだ。
エルシィは兄殿下を励ますためにも、努めて自信ありげに「ふんす」と鼻を鳴らして胸を叩いた。
「お任せくださいお兄さま。このエルシィ、立派にお勤めを果たして見せましょう」
この姿が功を奏し、カスペル殿下はいかにもやる気に満ちた妹を微笑ましく見て頷いた。
「なるべく難しくない案件だけを回すように調整するし、私の侍従を一人寄越すから、何であればその者に判断を任せてしまっても構わない」
要するにお人形さんで構わないということですな。
と、エルシィは大きく頷いて納得の意を示した。
実際のところ、いくら支配階級の娘とは言え八歳児に仕事をさせて何の判断力を求めるというのか。と言う話である。
それよりあくまで「支配階級の者がそこに在る」と言うことが大事なのだろう。
とはいえ、中身は立派な社会人である。
なるべく周囲に負担をかけずにお役目を果たそう、と密かに誓うエルシィであった。
部屋に戻ってキャリナとグーニーに着替えさせられる。
いつもならこの後、騎士府で日課の運動を行うので乗馬服になるところだ。
ちなみにエルシィの乗馬服も半月ばかり前に仕上がったため、兄殿下のお下がりは綺麗に洗濯してまたお蔵入りである。
ともかく、今日のこれからは日課の運動ではないので何に着替えたらいいだろうか。
「お仕事の内容にもよりますが、乗馬服は無いでしょうね」
考える風にして、キャリナがそう答える。
まぁカスペル殿下から元病弱な妹に向けて回される仕事が、肉体労働なわけがない。
ならば運動前提の服は必要ないだろう。という判断だ。
「そうですね、ではこれでどうですか?」
グーニーがクローゼットをしばし眺めて取り出したのは、いつもなら午後のお勉強時間に着る服だった。
袖の装飾やフリルが一切なく、色合いも茶や紺を中心としたシックな服装だ。
確かにこれなら事務仕事でも会議でも、華美過ぎず、それでいて仕事に前向きな姿勢を見せられるに違いない。
「ではそれにしましょう」
エルシィはニッコリと笑って頷いた。
着替えが終わるとすることが無くなる。
兄殿下が寄越してくれるという侍従待ちである。
「手持ちぶたさん」
「なんですか?」
暇に任せて呟いてみれば、すぐに反応された。
にへっと笑ってキャリナを見上げて胡麻化した。
駄洒落の解説など出来るものか。
そんなやり取りをしていると、ドアがノックされてフレヤが顔をのぞかせる。
「カスペル殿下の侍従殿がお見えです」
いつも通りのふんわりとした声でフレヤが優雅に述べるので、エルシィは侍女たちに頷いて許可を出した。
「お入り頂いてください」
エルシィの意を汲みキャリナが言う。
グーニーはすぐ部屋の隅へと向かい、キャリナはエルシィの座る椅子の斜め後方へと控えた。
そんな準備が整ったことを見て、フレヤはドアの外にいた人物を案内するように、実のところエルシィとの間に入って主を守る様に招き入れた。
「お初にご挨拶の機会をいただきました。カスペル殿下の侍従オーケと申します」
それからその人物は跪いて挨拶の向上を述べる。
歳の頃は二〇代半ばくらいだろう、黒い髪を後頭部辺りで切りそろえた、実直そうな男だ。
名を聞き、エルシィは咄嗟に「おーけーおーけー」と言いそうになってグッとこらえた。
代わりに「さようですか。よしなに願います」とお嬢様ぶって応える。
それからオーケは許しを得て立ち上がり、エルシィに、と言うか主にキャリナに、カスペル殿下から振られた仕事について述べ始めた。
今日のお仕事は、とある土木工事の進捗確認会合への出席だそうだ。
基本的にはしばらくオーケが同行するので、座っていればよい。
と言うことを遠回しに言われた。
まぁこれはカスペル殿下でもあまり変わらないらしい。
「会合はいつから、どこで行こなわれますか?」
エルシィが訊ねると、オーケは少し驚いた顔を見せた。
子供が興味を見せるとは全く思っていなかったのだろう。
「一時間後に内司府庁舎の会議所で行います」
だがすぐに顔色を整え、平坦にそう答えた。
内司府の長は天守に部屋を持っているし、各種手続きの為の部署はやはり天守にあったのをエルシィは見ている。
が、ここで言う庁舎は、各司府が内向けの事務仕事などを行う事務所が集まっている場所だそうで、城内の二層目にある。
エルシィはそんな取り繕いを良しとして、満足そうに頷いた。
社会人は面倒ごとでもそれを顔に出しては失格なのである。
諸々の事情を呑み込んで自分のお役目を完遂出来るものこそ、優れたサラリーマンと言えるだろう。
と、エルシィは少し偉そうに、オーケの様子に感心した。
「では後ほど会議所でお会いしましょう」
その後はオーケがそのように言って退出しようとしたので、エルシィは急いで呼び止めた。
「あいや待たれよ」
そしてキャリナにキッと睨まれた。
睨まれ、急いで口を噤んだ。
おっとこれじゃお侍さまで、お嬢様じゃないな。と一瞬だけ反省。
ともかく、と気を取り直して、立ち止まり振り返ったオーケに言葉をかけた。
「わたくしは今からすぐに会議所へ向かいます。オーケは今日の会合にかかわる工事の資料を持って来てください」
「は?」
そんなエルシィの言葉に、オーケは呆気にとられた。
よもやそんなことを言われるとは、夢にも思っていなかったからだ。
「えーと、あの姫様が資料を見るので?」
「はい。おかしいですか?」
慌てて確認を取れば、当のエルシィはニコリと笑って首を傾げる始末だ。
オーケはさらに慌てて気を付けの姿勢を取ると、すぐさま胸に手を当て深々と腰を折った。
「お、仰せのままに」
そそくさと退出していくオーケを見送り、キャリナは呆れたように溜息を吐く。
「エルシィ様、どういうつもりなのですか?」
「どうもこうも、わたくし、仕事は真面目にやる方なのです」
と、そう言われれば、キャリナも何も言えなかった。
フレヤなど、「まぁまぁ」と感心しながら、自らの主を褒めたたえた。
「姫様は可愛くも賢くあらせられますわね。ふふ」
まぁ、正直言って側仕えたちの評価などどうでもいいのだ。
エルシィの魂胆は何かといえば暇つぶしなのだった。
このひと月でエルシィは今の生活に退屈を憶えていた。
生活に関しては側仕えたちが護衛に世話にと働いてくれる。
午前は騎士府で日課に軽い運動する。
午後は勉強部屋でクレタ先生の授業を受ける。
つまり、自分に外からの責任が何も圧し掛からないのだ。
それはそれは気楽なモノである。
ところが、長いサラリーマン生活に染まってしまっていた丈二には、とても物足りない、手持ちぶさたな経験であった。
初めは休暇気分で楽しんでいたが、そろそろ何かしないと逆に気が休まらない。
それが仕事の真似事でも少しは気が休まるだろう、と言うのがエルシィの考えであった。
そして商社マンの仕事と言えば、まず何はなくとも情報収集である。
世界のどこに商機が転がっているか、それを探し出し開拓発掘し、そして金を儲けるのが商社である。
とは言え、今回は専門外の土木工事なので仕事の振り以上はできないだろう。
だが、それはそれで良いのだ。
初めから、エルシィが何かするなど期待されていないのだから。
「ともかく。キャリナ、フレア。合同庁舎へ行きましょう」
そうしてエルシィはいつもの三人行列で、初めて城の第一層から外に出るのだった。