215両街道からの速報
セルテ侯国主城の政務中心となる侯爵執務室にて、セルテ候エドゴルは部下の報告を聞いたり、大まかな指示を出したり、決済の書類に目を通したり、とにかく日々の政務に忙殺されていた。
忙殺されながらも、どこかイライラとしていた。
次から次へと執務室に訪れる閣僚や官僚たちは、それぞれが皆「なぜ侯爵陛下がイライラされているのか」を理解しているので、それゆえに誰も会話の俎上には挙げない。
彼が何にイライラしているのか、と言えば、ひと月と少し前に出立したハイラス討征軍についてである。
電波や有線での電気通信がまだないこの世界では、遠方同士の連絡手段と言えば基本的に伝令によるものとなる。
一応、烽火などと言った手段もあるが、これはあくまで警報や速報くらいのモノで詳しい報告を聞くには向いていない。。
ゆえに、此度のような進軍についての報告であれば、ほぼ伝令がやって来るのを待つしかないのだ。
その伝令による連絡がない。
いや、討征軍の目的は「とにかく迅速に両街道を抜けて、電撃的にハイラス領都を制圧すること」であるならば、特にあれやこれやという不測の事態がなければ連絡など必要としないだろうし、その余裕も惜しいと考えられる。
また、ひと月とすこしという期間であれば、ようやく街道を抜けてハイラス領へ迫りつつある、という程度の日数である。
計画通りであれば報告が届くような頃合いでもない。
さらに言えば、身軽な単騎から数騎による早馬伝令であっても、国境からここまで一〇日弱はかかるのだ。
最初の報告が来るにしても、常識的に考えてももう少しかかる。
それくらいは彼も解っている。
解っていても、待つ身としては時を長く感じられてしまうモノなのである。
と、そこへ数々の政務報告に紛れて、一人の怪し気な雰囲気を纏った青年がやって来た。
姿としては普通に政務官風ではあるが、見る者が見れば服の上からでも鍛えられているな、というのがわかるし、その目つきがすでにピリピリしている。
おまけに頭上にはねこの耳がピコピコと覗いていた。
つまり、そこいらの文官には到底見えなかった。
近衛の者たちは一瞬警戒したものだが、それでもこれまでに何度か見た顔だったので、いつでも剣を抜ける程度に落ち着いてかの動向を見守った。
果たして、それはエルシィが「山の里」を征したことによって、処刑を恐れ離脱したかの山の密偵の一人、クヌギであった。
クヌギは畏まって膝をつく。
「畏れながら陛下に我が手の者によるご報告を申し上げますにゃ」
「ぬ、お前か。よし、申せ」
エドゴルとしてはあまり期待もしていなかったはぐれ山の里であったが、事ここに来て誰よりも早く討征軍についての報告を持ってきたことに喜んだ。
エドゴルは執務の手を止め、椅子の背もたれに身を預けるようにして報告を待つ。
ところが、クヌギの表情は一向にすぐれず、緊張した面持ちのまま言い難そうに口を開いた。
「カタロナ街道にて、シモン将補率いる八〇〇の群が、ハイラスの兵と戦端を開いた模様にゃ」
「……なんだと?」
一瞬、何を言われたか判らなかったエドゴルだが、すぐ驚きに目を見開いた。
「待ち伏せされたのか? 討征の情報が漏れていたのか!?」
「い、いえ! それは……その、おそらく、国境巡視の隊と偶発的遭遇なのではないかと愚考するにゃ」
情報戦についてはまかせろ、と、以前豪語した手前、「はいそうです」などとは言えないクヌギがしどろもどろと答える。
エドゴルは苛立ち声を荒げたことで青年が恐れたと勘違いし、ふぅと息を吐いてから再び気を落ち着けた。
「して、戦況はどうなのだ」
「は、それについては続報をお待いただきたいにゃ。
この報告はあくまで速報でございますにゃ」
そう、速報である。
人馬の足ではまだ街道からの報告は届きようもない。
彼ら山の里の秘伝である烽火を駆使した遠方連絡によりもたらされた
モノであったからこそ、今、届いたのだ。
彼らの烽火は、一般で使われる烽火より煙が早く立ち、いくらか詳しく連絡できるよう決めごとがされているのだ。
「……で、あるか……」
エドゴルは再び苛立ちを湛えた表情に戻って、手振りだけでクヌギに「下がってよい」と申し付けた。
侯爵執務室から下がったクヌギは主城廓の下層にある、古く小さいがそこそこ立派な屋敷に入った。
ここは、里から離脱した彼を含む五人の山の民に与えられたアジトである。
クヌギはその一室に集まっている二人の同胞の元へとやって来て、空いている椅子の一つに腰を下ろした。
ちなみにあと二人については、それぞれが両街道の様子を見に行っている。
「それで、続きの烽火はあったにゃ?」
クヌギは差し出された白湯を一口飲んでからそう訊ねた。
尋ねられた仲間の二人は言い辛そうにしながら、静かに首を振った。
「シモン将補の率いる群は、どうやら負けたらしいにゃ」
「負けた!? どうして……数では勝っていたにゃ!」
「そんなこと判らんにゃ! さすがに烽火でそこまで細かいことは訊けるわけないにゃ」
「……そ、そうだにゃ。それでナバラ街道の方はどうなにゃ?」
「そっちも先ほど烽火があったにゃ。こちらは戦況膠着らしいにゃ」
「すると、どうやら待ち伏せされてたってことにゃ?
完全に情報戦で敗北しているにゃないか」
クヌギはがっくりと項垂れる。
侯爵の前では威勢のいいことを言ったが、どのみち、里全体とクヌギたち若手五人でははなから勝負にならないのは判っていた。
それでも、多少は出来る、と思っていたのだが。
現状を見ればそれは奢りでしかなかったというのがよくわかる。
「どうするんだ? 侯爵陛下に報告に行くにゃ?」
仲間の一人が声を潜める。
この屋敷には彼らしかいないはずだが、やはりやましい話はどうしたって声が小さくなるモノだ。
「どうするって、こうなればあのガキがここに来るのも時間の問題にゃ。
あれと、戦えるにゃ?」
クヌギは眉間のシワを一層深くして顔を上げた。
「あの公女殿下なら、さすがにひとひねりにゃ?」
仲間の一人が軽口を叩く。
が、これも不安を払拭するためのモノでしかない。
「阿呆、周りにいる連中がヤバいんにゃ」
ゆえにすぐにこうピシャリと言われ、三人は一様に押し黙った。
「……逃げるにゃ?」
誰ともなく、そう言葉が挙がった。
皆が顔を見合わせ頷く。
この言葉が出た時点で、もう三人の心は決まっていたのだ。
と、その時、彼らの集まった部屋の入口扉がノックされた。
三人はしっぽの毛を逆立たせて扉を見る。
密偵としてあるまじき失態。
重大な議題に気をとられ、誰かが屋敷に侵入したことに気付かなかった。
三人は固唾を飲んで扉に注目しつつ、低い声で答えた。
「だ、誰にゃ……」
果たして、扉を大きく跳ね開けて入って来たのは、遊び人にしてはやけに仕立てのいい服を着た三十がらみの男、旧ハイラス伯ヴァイセルであった。
「やぁ、逃げる相談かい?
なら、ひとつ、俺も混ぜてもらえんかね」
クヌギたちは困惑気にねこ耳をピクピクさせながら、絶句した。
続きは金曜日で




