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021大公館風呂無しトイレ付

 丈二がエルシィになって、一ヶ月が経った。

 もういい加減、これが夢だと思うのは諦めている。

 継続して一ヶ月ずっと目覚めない夢と言うのは、さすがに不自然だ。

 そうなると会社の方がどうなっているか気になるが、そもそも今所属している課に転属してからは出張が多くてあまり会社にいなかった。

 そう言うこともあって、ある日「もう、どうにでもなーれ」と唱えたらあら不思議、精神的な不安はすぐになくなった。

 さて、この一ヶ月間、エルシィがどう過ごしていたかと言うと、主に運動と勉強だ。

 朝起きて着替えて朝食摂って山羊乳飲んで着替えて運動して清拭して着替えて昼食摂って山羊乳飲んで着替えて勉強して着替えて夕食摂って山羊乳飲んで清拭して着替えて寝る。

 本当は牛乳を飲みたかったが、この国の畜産では乳牛はやっていないそうなので、山羊のお乳をもらうことになった次第である。

 「城のお姫様が山羊のお乳大好きらしい」と噂が伝わると、城近くの畜産家が毎朝喜んで新鮮な山羊乳を届けてくれるのだ。

 エルシィは毎朝「ありがたやありがたや」とむにゃむにゃ拝んで頂いている。

 山羊乳効果かどうかは解らないが、運動を始めて五日もすると疲労でダウンすることがなくなり、朝昼夕の食事は基本的に部屋ではなく食堂でカスペル殿下と共に、稀にヨルディス陛下もご一緒するという具合になった。

 カスペル殿下によると、エルシィが食事に頻繁に現れるようになってから、陛下の参加回数も増えたらしい。

 そんな生活を一ヶ月続けたおかげで、エルシィの体力も随分と付いた。

 とりあえず騎士府グランドを二周、ジョギングで回るくらいは問題なくなった。

 これで安心してもう少し遠くまで散策しに行けるというものだ。

 ちなみにジョギングとランニングの違いについてだが、ジョギングはあくまで自分のペースでのんびりと、ランニングはより速く走るのを目的としているらしい。

 なのでエルシィが二周回れるのも、あくまでジョギングの話である。


 その日も運動の後部屋に戻り、キャリナとグーニーの二人がかりで清拭だ。

 昼の清拭は簡易なもので、小さな桶のお湯を使ってさっと拭く。

 比べて就寝前の清拭はもう少し大げさで、大きなタライの中に立たされバシャバシャと洗うように拭かれる。

 気分は花祭りのお釈迦様である。

 これも初めは恥ずかしいやら、くすぐったいやらだったが、毎日の事なのですぐ慣れた。

 ちなみにこの清拭用のお湯だが、ハッカ油などが入っているのか拭くだけなのに結構スッキリするものだ。

「でも、それとこれとは話が別です」

 あられもない姿で身体を拭かれながら、エルシィは不満げに呟いた。

「何ですか? 何か粗相がありましたか?」

 キャリナも中身が変わったエルシィの奇行には慣れて来たので、作業を止めずに軽く問う。

「いえ、不備は何もありません。いつも通りで大変よろしい。ただ……」

「ただ?」

「たまにはお風呂に入りたいな、と思いまして」

 そう、エルシィの求めるモノはタライではない湯舟だった。

 長い海外出張ではほとんど湯舟につからない生活を送る事もある。

 それはそれでやっていけないことは無いのだが、やはり疲れた時はユッタリと湯につかりたいと思うのだ。

 ただまぁ、どうせ清拭文化で風呂など無いのだろう、と期待しない発言だった。

 しかし、キャリナは少し考えるようにエルシィの顔色を窺って頷いた。

「お風呂ですか。そうですね、そろそろ行っても大丈夫かもしれませんね」

「え、お風呂あるの!?」

 つい驚きに声を上げるエルシィだったが、すぐに口元に手を当てて声を塞ぐ。

 キャリナの指導の賜物だ。

 後は突発的な声を上げない様になれば良いのだが。

 と、キャリナは小さく溜息を吐いた。

「あるにはあるのですがお山の祠近くですので、エルシィ様の体力と相談次第だったのです」

 聞いて、エルシィは「ふぇ……」と少しひるんだ。

 お山の祠と言えば、天守見学で遠目に見た山の中腹付近である。

 そんなところにあるならお風呂と言うより温泉なのかもしれない。

 いや焔の神を祀るお山なのだから火山だろう

 なら温泉に違いない。

 大変すばらしいことである。

 とはいえ、あそこまで登山しないと入れないなら、それは体力と相談にもなるだろう。

「月も変わって気温も少し暖かくなりましたし、そろそろ頃合いでしょう。予定を検討しておきます」

 そう言って昼の清拭は終わった。

 後は着替えて昼食である。

 ちなみに『月』とは暦の事だ。

 おおよそ三〇日か三一日でひと月、一二ヶ月で一年となる。

 この暦は内司府下の文司と言う部署が作っている。

 丈二がエルシィとなったのが蚕の月で、今は変わって苗の月だそうだ。

 おおよそ気温や名前からすれば春なのだろう。


 昼食はいつも通りカスペル兄殿下と楽しく摂り、つつがなく終わった。

 その後、ヘイナルとキャリナを連れて食堂を出た所でエルシィはふと立ち止まり呟きを入れた。

「それにしましても」

「なんですかエルシィ様」

 ヘイナルもキャリナも、怪訝そうに主へと注目し発言の続きを待つ。

 エルシィは言葉を選ぶように、しばし考えながら口を開いた。

「もう一ヶ月だというのに、何も起こりません」

 一瞬、何を言われたか解らなかった側仕え二人だったが、すぐに彼女の本意を汲む。

 つまり救世主エルシィが遣わされた理由にかかわる話である。

「確かに。女神様は具体的に何が起こる、とは仰せではなかったようですが、今日まで何か危機らしい危機の話は何も入ってきていません」

 ヘイナルが考えるように親指で顎を支え、キャリナもまた何かここまでの生活や情報で見落としが無かったかを慎重に思案する。

 が、やはり誰も何も心当たりがなかった。

 ゆえにエルシィはニヘっと相貌を崩した。

「まぁすぐに何かが起こるとは限りません。『エルシィが一六歳の時!』とかかもしれませんし、警戒はしつつ、気長に待ちましょう」

「なぜ、一六歳なのですか?」

「様式美です」

 そうして疑問は流れ、三人は再び歩き始めた。

 歩き始めたところで、エルシィはまた立ち止まる。

「今度は何ですかエルシィ様?」

「ちょっと、お花を摘みに」

 つまりおトイレである。

 食事をインプットすれば当然ながらアウトプットもあるもので、この世界の住人達も当たり前にトイレへ行く。

 エルシィは足の向く進路を変えた。

 もちろんトイレだろうが側仕えは付き従って、近くに控える。

 さすがに中まで入ってこないが、ドア前で出待ちである。

 もっとも、貴人となれば側仕えが付くのが当たり前なので、やんごとなき生まれの人は男女関係なく、こんなものは気にしない。

 だが丈二は紛れもない庶民なので貴人の気持ちなど解らない。

 されど元男子であることと、海外出張で様々なトイレ事情に慣れていること、などから、彼もまたその程度の事は全く気にならなかった。

 世界には、個室すら許されないオープン型だって珍しくないのだ。

 トイレに入って用を足そうとしゃがんだら、正面に知らない人がいて「コンニチワ」である。

 さすがの丈二もびっくりだ。


 さて、大公館のトイレは一階にある。

 二階に上がる大階段の裏手のドアを開けて細い通路をしばし進むとトイレ用の小部屋にたどり着いた。

 この小部屋には一人で入る。

 そしてこの館のトイレは驚くことに水洗だ。

 とはいえ、「ひねり出した後に流す」という能動的なモノではなく、床穴の一m程度下の辺りでずっと水が流れている常時水洗である。

 人工的な専用水路の上に床を作った、と言う方が正しいかもしれない。

 この水が何処から来て何処へ行くのかエルシィは知らないが、城内の水堀から汚水臭が漂ったりはしないので、おそらく何らかの浄水システムがあるのだろう。

 水洗なので綺麗だし匂いも少ない。

 ただ夜などは暗くて穴に落ちそうでちょっと怖くもあった。

 いつだったか夜中に下で小魚がはねた時は、さすがに心臓停まるかと思った。

 そうして無事にお花を摘み終え、エルシィは部屋へと戻った。

暦は蚕の月が4月、そこから苗の月、水の月、蘭の月、火の月、菊の月、雷の月、風の月、夜の月、氷の月、土の月、陽の月と続きます

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