208ランチェスター氏曰く
ランチェスターの法則というのをご存じだろうか。
簡単に言うと戦争した時に数が多い方が勝つという話なのだが、もう少し詳しく言うと「多い方の軍が戦闘後に何人生き残るか」を数理モデル化した法則である。
有名なのは二次法則の方で、こちらでは「数が多ければそれだけ被害も少なくなる」ということを述べている。
具体的に言えば今回の場合、スプレンド将軍率いるハイラス領軍七〇〇と、侵征軍副将であるシモン率いる三五〇の戦い。
これを件の方程式に当てはめて計算すると、ハイラス領軍の方が数が多いので、勝利した上に死傷者数は一〇〇程度、という結果になる。
しかしこの有名なランチェスターの二次法則はあくまで銃火器を用いた近代戦の話なので、実は今回の場合には当てはまらない。
此度の戦争のように剣矛や弓矢を用いる場合、一次法則が用いられることになるのである。
ならばランチェスター氏は一次法則でいかに言っているだろうか。
これはもっと単純に引き算だ。
つまり兵数七〇〇から三五〇を引き、生き残るのはハイラス領軍三五〇で、ハイラス軍の勝利。
となる。
実に判り易い。
では実際の戦闘はどうだったか、と言えば、まぁ当然ながらハイラス領軍が勝利するのは動かないわけだが。
スプレンド卿の騎馬を先頭に、まずはおよそ全軍の一割に当たる七〇騎が猛然と突撃を開始する。
街道に降り積もった土埃を舞い上げながら、その速さたるや疾風のごとく。
「閣下! 将たる者が先頭切って行かんでください。
先陣の誉はぜひ配下に!」
スプレンド卿の馬にピタリと随伴している騎士が叫ぶ。
彼はこの防衛軍において、スプレンドの副官であり、また騎士をまとめる隊長の職にあるベテラン兵だ。
「指揮官先頭は軍の常識だろう? それを君は止めるというのかね」
いかにも楽し気に、スプレンドは脚を緩めもせずにそう答える。
「将軍閣下、判って言ってるでしょう? もうその考えは古いのですよ。
将に死なれでもしたら、戦場がどうなるか」
だが、その副官騎士の言葉は、スプレンド卿の耳に届かなかった。
否、届いていながらに無視されたのだ。
さて、指揮官先頭とは何だろう。
これはやはり古い戦訓である。
古代の時代から実に太平洋戦争までまかり通っていた「人を動かすにとやかく言うより先頭でやってみせるのが早い」という教えである。
これは現代の様々な教育現場でも通用する考えではあるが、戦争においては副官騎士の言う通り、「指揮官が真っ先に死ぬ」という問題が付きまとう。
ゆえに、時と場合にもよるだろうが、現代ではあまり使われる教訓ではない。
しかし、スプレンド卿のような強者にとって、先陣を切るというのは何よりの楽しみなのだろう。
彼は一切譲る気がなかった。
そしてかの騎馬軍団は未だ混乱から立ち直り切っていなかったセルテ侯国軍に食らいついた。
これが互いに準備万端な激突であれば、また、結果は違っただろう。
ところがこれはまともに準備さえ整えていない、少数となった軍に対する突撃だ。
セルテ候軍は土砂崩れから逃げやすかった騎兵が比較的多く残っているが、それでも行軍中の事でもあり、武具の支度などが出来ていない。
場合によっては剣矛を持っていた従騎士を失った騎士すらいる。
随伴のいない騎馬など、その戦力は大幅減である。
そんな中、さすがに将として抜擢されただけはあるシモンはなんとか凌いでいた。
「くっそ、何なんだちくしょうめ!」
とは言え、彼はその腕っぷしを見込まれた部分が大きく、やはりまだ指導力という点では多数を率いて戦うには足りていないかった。
この時も、自分の戦いに集中せざるを得ず、周りに目を向ける余裕は無かった。
と、そこへ、すでに数騎を平らげて来たスプレンド卿がやって来る。
「君が盗賊の親方ということで間違いないかい?」
くすくす微笑を浮かべながらそう訊ねるスプレンド卿に、シモンは愕然としつつ、そして頭に血が上る。
「てめぇ、栄えあるセルテ侯国の兵に対して何だその言い草は!」
「栄えある! なるほど、今時の野盗は誇りを持って行う仕事なのか。
それは知らなかった。いや、すまない」
自分こそつい数か月前にジズ公国への侵略軍を率いていたくせに、それを棚に上げての堂々たる言い草だ。
完全に解かってて言っている。
もちろん、煽りである。
この辺は人生経験の厚みの違いといっていいだろう。
そしてこの挑発に、シモンはまんまと激高した。
「そのケンカ、買ったぜ!
来やがれ、一騎打ちだ!」
そもそもこの状態でスプレンド卿が一騎打ちを受けるメリットは全くない。
どうしてかと言えば、すでに多くのセルテ兵は討ち取られるか戦意喪失しており、軍同士の勝敗は決していたからだ。
先のランチェスターの法則の話に違い、ハイラス側に損失はあまりない。
なぜか。
実は先の上記の法則話には欠損があったからだ。
前述では「装備などの優劣」が抜けているのだ。
つまり、上の話はあくまで「装備条件が同じであり、はいスタート! で戦いを始めた場合」という前提があったのだ。
この辺りは件の法則でもしっかり述べられている。
それでもなお、スプレンド卿はこの一騎打ちを嬉々として受ける。
なぜなら、彼は戦闘狂の気があるからだ。
なにせ、先の戦役でもホーテン卿と一戦交える為に、いち兵卒に紛れてジズリオ島へ上陸したくらいである。
こうして、カタロナ街道の戦いを締めくくる大将戦が、いよいよ始まろうとしていた。
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