206悪業
カタロナ街道を進みハイラス領に向かうセルテ候軍から見ると、街道の左手にはアンダール山脈へと続く斜面や崖がそびえ、そして右手には穏やかな内海が広がっている。
「ありゃぁ、なんだ?」
街道を暢気に進むセルテ候軍の将シモンは、その海原にポツンと見えた豆粒のような影に目を止めた。
「あれは……イルカ、ですかね? 漁師の網にかかることもあると聞きますが。
私も見るのは初めてです」
「ほぉ、あれが」
副官の回答を聞いて、シモンは感心してさらに目を凝らす。
「セルテ人の海」などと名付けられたこの内海はケントルム海峡同様にとても豊かな漁場である。
沿岸に住まう人々は、古くからこの湾にて海の恵みを得て暮らして来た。
様々な魚介類以外にもイルカもクジラも多く生息している。
ゆえに、イルカがぷかぷか泳いでいても何の不思議もない。
とは言え、セルテ侯国の内陸人であるシモンはじめとした多くの従軍者たちにとって、それは珍しい光景であった。
「それで……ありゃ、なんだ?」
そして、しばし眺めていたシモンが、再び先と似たような問いを口にした。
副官は「今度は何だって言うんだ」と少しだけイラっとしながらかの将の視線を追ってみる。
「……なんでしょうね?」
幾頭ものイルカの中に真っ白なイルカが一匹。
その背には小さな人が乗っかっているように見えた。
なにぶん、豆粒ほどに小さくしか見えない距離なので、はっきりとはわからない。
なので、副官氏も首を傾げつつ、頭上に疑問符を浮かべた。
その、海に浮かぶ当事者たる神孫の双子、姉の方、バレッタ嬢は元気よくカタロナ街道向こうに見える崖を指さした。
「距離!」
「きゅー!」
対して、彼女の騎獣となっている白イルカのホワイティも元気に返事をする。
「きゅー、きゅー!」
その取り巻きのイルカたちも続けてそう応える。
余人にはイルカたちの言うことがわからない。
が、バレッタには通じているようで、彼女は満足そうに何度か頷いた。
「じゃぁ次、風は?」
バレッタが今度は垂直に指を立てて風の向きや強さを感じ取ろうとする。
「きゅー!」
イルカたちも真似して前肢を掲げた。
「風よし!」
バレッタはまたもや満足そうに頷いてそう言った。
まぁ、これらの確認はほぼ彼女の気分である。
そしてここからが本番であった。
「砲撃準備!」
「きゅ!」
バレッタが両腕を雄々しく突き出す。
その向こうにあるのは、先に確認したアンドール山脈の崖だ。
「|おーぷん・ざ・ふぁいやぁ《全砲門開け》!」
その途端、彼女ら視界は全面を赤白い光に覆われた。
ドゴーン! という大きな音が頭上で響いた。
「なにごとだ!?」
いち早く反応した副官殿が音の方を目視する。
見れば、彼らの軍列が進むちょうど横にそびえていた崖の上の方で、広範囲に土煙が挙がっていた。
「アンドール山脈が噴火でもしたのか?」
これまで暢気に構えていたシモンもまた、理解に勤めようと土煙を凝視する。
どうやら、大きな何かが崖にぶつかり、その崖を粉砕したのだと判った。
「いかん、総員、全速で前へ進め! とにかく逃げろぃ」
理解が及んで、その危機に気付いたシモンが叫びをあげる。
ただ、そう指示を出されても、行軍中だった多くの者はすぐに反応することは出来なかった。
指示に従って前へ駆け出す者、前が込み合っていることを理解してすぐ後ろへ駆け出す機転の利く者。
そしてけして少なくない人数が、どうすれば良いか判断できずに立ちすくんだ。
「ええい、逃げろ逃げろ、とにかく駆けろ!」
その間もシモンは叫び続け駆け続けた。
だが時は待ってはくれず、無情にも崖上から崩れた土砂と岩が降り注ぐ。
その崩落は、セルテ侯軍の多くの将兵を飲み込んだ。
「ふむ、およそ二〇〇は巻き込んだようですな」
その様子を遠くハイラス領都の虚空モニター越しに見ていたホーテン卿が、あご髭を撫でつけながら呟いた。
その眼は遠くを見ているようで実に犠牲者の数を正確にとらえている。
「これは……なんとも恐ろしい。
このような災害を引き起こすなど、もはや神の御業と言ってよろしいかと」
また、同様にモニターに食い入っていたライネリオが頬を引きつらせながら呟く。
これにはアベルが「まぁ、爺さんが神様だけど」と聞こえない程度の声で呟き返す。
そして彼らの主君たるエルシィもまた、痛ましい表情を浮かべながらモニターを眺めていた。
「この結果に後悔はしておりません。
しておりませんが……もし天国や地獄なんてものがあるのなら、きっとわたくしは地獄行きでしょうね」
戦争である。
であれば人は当然に死ぬ。
とは言え、こうも一方的に、そして一瞬のうちに数百という命を消し去った。
その指示を出したのは、紛れもなくエルシィだった。
これはさすがに元帥杖の精神作用をもってしても、無邪気な顔でキャッキャとする気にはなれない。
だが、その言葉を聞きつけた臣下たちは、途端に僅かばかりの動揺をあらわにしてエルシィを見た。
「まさか! 宣戦の布告せずに戦端を開いたのはやつらの方です。
正義は我らがエルシィ様の頭上にあります!」
フレヤが激高したように叫ぶ。
彼女にとって、エルシィ、ひいては大公家が何より至尊の存在である。
その至高の御方に大義があるなら、もうそれは絶対なのである。
そこまでではないにせよ、ホーテン卿もまたフレヤの発言には大いに頷いた。
「うむ、そうですな。
戦争などはどうも『やった者勝ち』というように思われがちだが、そこには歴としたルールがある。
宣戦の布告と言えばその最たるもの。
そのルールを守らずに相手の国を盗ろうというのなら、それは野盗と一緒よ。
野盗などいくら殺そうとも悪業になどなりはせん」
最後の件はいささか過激にも聞こえるが、それが彼らにおいての常識であった。
「まぁ、わたくしは『悪人にも人権がある』という世界から来たわけですけどね」
少しだけ気を取り直したエルシィは、誰にも聞こえない程の小さな声でそう呟いた。
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