020姫様式健康体操
しばらくすると諦めたキャリナが、どこかから小さな折り畳み椅子を持ってきてくれたのでそれに座り、また騎士たちの訓練を眺めて午前中は終わった。
部屋に戻って身体を拭かれ着替えた後は、食堂に行く元気がなかったので部屋でお昼を済ませた。
だが午後の勉強を終えた夕飯時にはかなり回復し、むしろお腹ペコペコで食堂へと向かった。
「今日は超大盛りでお願いします!」
主人の給仕についたキャリナに対してそう願い出ると、彼女はニッコリと笑って「畏まりました」と厨房へと下がっていく。
そして耳を傾けると「ちょっとだけ多めで」と料理人たちに言づけているのが聞こえた。
超大盛りって言ったのに! と少しプンスカしながら給された料理に手を付ける。
カスペル殿下と今日の訓練の様子などを話しつつ食べ進め、そして皿の料理が無くなる頃には、すでにお腹がパンパンだった。
超大盛りだったらヤバかった。
と、思わざるを得なかった。
翌朝、目覚めると昨日のダルさなどどこにもなく、むしろ気分は爽快であった。
「これが若く健康な身体の回復性能か!」
何度も驚く自分が怖い。
などとベッドから半身を起こそうとして思い直す。
ここで若い回復力への喜びに身を任せて起きてしまえば、この後やってくるキャリナにまた「きゃふん」と言わされるところである。
エルシィも学習したのだ。
ともかく、仕方がないのでキャリナとグーニーがやってくるまで、しばらくベッドでゴロゴロと過ごした。
侍女たちがやって来たら身支度を済ませ朝食へ行く。
それが済んだらまた着替えだ。
「今日はどうされますか?」
「今日も騎士府グランドで体力づくりです!」
グーニーにそう答え、洗濯の終わっている乗馬服の袖に腕を通した。
キャリナ、ヘイナルを供に騎士府へ向かう。
「おはようございます。今日もご苦労様です」
門の警士に右手をピッと挙げて挨拶をすれば、昨日とは違う警士だったせいでまた戸惑わせてしまった。
まぁ挨拶は大事だし、続けていれば相手も徐々に慣れるだろう。
と、エルシィはこれからも挨拶をすることを心に誓いながら門をくぐった。
そう言えば、昔のイギリス紳士は、雨が降っても傘を差さずに帽子と外套で凌いでいたそうだ。
ところが旅行好きなイギリス紳士のジョナスさんは、ペルシアで見かけた雨傘に影響され本国に戻ってからも雨の日に傘を使うようになったとか。
当時のイギリスでは傘と言えばご婦人の日傘ばかりだったので、ジョナスさんはたいそう変人扱いされたそうだ。
だがジョナスさんは雨の日に傘をさすのを三〇年やめなかった。
そうしたらそのうち、他のイギリス紳士たちも慣れて、ついには雨傘を使うようになったという。
つまり、要は慣れなのだ。
姫からの挨拶に戸惑う警士たちも、そのうち慣れるだろう。
というか三〇年て何さ。もっと早く慣れようよ。
そんなどうでも良いことを考えながら準備体操のストレッチを終えたところで、キャリナが口を開いた。
「今日も走るのですか? ならあそこまで走ったら戻ってくるといいですよ」
そう言ってグランドの一か所を指さす。
見ると、昨日走った半周の、さらに半分の位置だった。
つまり「半周しか走れないなら、戻ってくることも考えろ」と言われているのだ。
まぁ尤もな話だよね。
と納得しつつも、エルシィは首を横に振る。
「走るのは、まだわたくしには早いと学習いたしました。今日は別の運動をします」
ふんす、と気合を入れて腰に手を当てると、キャリナは「ほう」と感心したような声をもらした。
ただ、エルシィを見下ろすその視線は、あまり期待していない様子だった。
「行きます」
気合の為に宣言し、足を肩幅分開いてからゆっくりと、本当にゆっくりと両腕を開いて回し始めた。
時に両腕の動きをそろえ、時に開き、足腰の動きもそれに合わせて捻ったり、また歩いたりする。
しばらく続くその妙な動きを、側仕えたちは呆然として眺めた。
眺め、ハッとしてヘイナルは疑問符を頭上に挙げた。
「姫様、その不思議な踊りは何ですか?」
「踊りじゃありません。『太極拳』です」
「はぁ、そうですか」
答えを聞いても解らなかったので、ヘイナルは諦めて主の踊りをそのまま眺めた。
ゆっくりとした動きなので息は切れない。
いや、むしろ息が切れない速度で行うのがコツである。
それでもゆっくりねっとりと身体を動かすというのは存外に疲れるもので、エルシィの玉の肌には、ジンワリとした汗がにじんでいた。
なぜ太極拳なのか、と問われれば、ただ知っていたからと答えただろう。
丈二がまだ開拓課では無かった頃、海外出張で上海へ行った時のことだ。
朝、目覚めて街に散歩へ出かけると、公園で集まりラジオ体操のごとく太極拳をする人たちがいた。
丈二はいつもの調子で彼らに近づき、そして教えてもらったのだ。
この太極拳は武術としての太極拳を健康体操化したもので、これを練習したから即殴り合いに強くなるというものではない。
ただ部屋でも手軽に出来る運動なので、海外出張で外出禁止となった時などに少しずつ思い出して練習していたものだった。
実は同じ出張では長拳というのも教えてもらっていたが、こちらは動作も大きくのびやかに飛んだり跳ねたりするので、とてもじゃないが今のエルシィには耐えられないだろう。
ともかく、そうしてヘイナル達には不思議な舞踊にしか見えない太極拳を続けるうちに、騎士たちが珍し気に集まってきた。
気づけば、騎士長ホーテン卿までが興味深そうに顎に手を当てている。
「な、なんです?」
あまりの集合振りに気後れして動きを止めたエルシィが訊ねると、ホーテン卿は面白そうに口の端を上げて手の平を差し向けた。
「いえいえ、邪魔をして申し訳ございません。どうぞお続けください」
「そ、そうですか」
何か用事や感想を口にするでもなく「続けて」などと言われれば止める機会を失ったようなものだ。
仕方なく側仕えと騎士たちに囲まれたまま、エルシィは再び太極拳を始める。
すると、ホーテン卿はエルシィの横に並び、見よう見まねで太極拳を始めた。
「ふむ」
などと頷きながら、彼の動きは徐々にエルシィに同調していく。
それを見て、少し間を開けて眺めていた騎士たちも、同じ様に太極拳を始める。
まだ慣れないためぎこちなくもあるが、さすがは戦う職業の人たちだ。
たちまち動きは洗練されてゆき、やがては一糸乱れぬ動作を続ける集団となった。
やめる機会を完全に失ったエルシィは、鎧騎士どもが集団で太極拳を行う様子を横目で見て、あまりのシュールさに僅かな眩暈を覚えた。
「なんだこれ。いつまで続けたらいいの?」
結局、その日もエルシィは足が震えて倒れるまで運動することになった。