197サイード将軍の憂鬱
一六〇〇の兵を二つに分けたセルテ侯国軍は、領都集合よりおおよそ三〇日とちょっとでナバラ、カタロナ両街道へと侵入した。
二軍に分けたことで進行スピードは多少上がったが、急に軍を分割するという余計な作業が入ったために結局のところ総合的な日数にあまり変わりはなかった。
とは言え、このスピードもなかなか早い。
いかに総司令たるサイード将軍の指導が行き渡っているかという証拠だろう。
さて、そのセルテ侯国軍総司令たるサイード将軍はというと、ナバラ街道へ侵入した分遣群の中にて馬上の人であった。
その将軍閣下は、自らの腹心である青年副官と轡を並べて進む。
少し離れたところでは合計一〇ほどの騎兵と歩兵が、将軍を囲むように輪形陣を組んで護衛として進んでいる。
サイード将軍はため息をついた。
「お疲れですね将軍閣下」
特に表情を変化させることもなく、彼の副官がそう声をかける。
普段から無表情な副官なので、サイードは特段気にもせず「あ゛ー」と唸り声を上げることで返事とした。
そしてしばらくそのまま黙っていたかと思うと、周囲の護衛に届かない程度の小さな声でおもむろに口を開く。
「お前にだけには言っておく。他言無用とせよ。よいな?」
「はい……はい? 何ですか改まって」
少しだけ眉を動かして怪訝さを表現した副官は、首を小さく傾げた。
サイード将軍は前を向いたままでいかにも深刻そうに、まるで独り言のようにつぶやいた。
「こたびの戦、ダメかもしれん……」
副官氏もこの侵攻の経緯について、ある程度知らされている。
ハイラス領を雷光の如き速さで制したジズ公国の公女殿下が、気づけば国境に横たわるアンドール山脈をも自領としていた。
これに警戒を抱いたセルテ候は、防衛的先制攻撃を決意して侵攻計画を発布。
彼の知る経緯とは、おおよそこのような話だ。
ついでに言えば、全軍で速やかに侵攻する予定が、急遽出発直前で二軍に分けられたということか。
それらを踏まえて副官の青年は将軍に目を向けた。
「軍を分けたことで我らが負けると予感されてるのですか?
……しかし、街道を抜けた後に合流しつつハイラス領都へ迫るのでしょう。
結果的には分散進軍で足が速くなる分、成功の可能性が高くなるのでは?」
「ああ、まぁ、そうだな。そうなるとよいと拙者も考えておるが……」
将軍の曖昧な言いように、副官はなお一層眉間のしわを深くする。
「閣下は、あの公女殿下にこの策が露見しているとお考えで?
いやまさか、そんなことあり得ませんでしょう。
それが出来るのは天より俯瞰する神々のみでありましょう」
サイードも論理的思考にて副官の言い分に納得しているし、元々よくわかっている。
それでも、何か予感めいた胸騒ぎが彼にはあるのだ。
その予感が当たったことを副官が知るのは、それからさらに一日も進み、ナバラ街道半ばを過ぎた頃だった。
進む先の向こうに、何か大きなモノが街道に横たわっているのが見えた。
「将軍、あれは……」
それは土を盛って作られた街道封鎖の壁だ。
「土塁か? ふむ、やはりこの侵攻、すでに相手に読まれておったか。
さてカタロナ街道側はどうであろうな……」
サイード将軍は全軍に一時停止を命じつつ空を仰ぐ。
右手には侵入を断つようにそびえるアンドール山脈へ続く崖。
左手には急な下り斜面の下に白波を立てる海原が見える。
選べるのはこのまま進むか、はたまた戻るか。
だが彼らの背後にはセルテ候直属の軍監がいる。
戻るということはサイード将軍の失脚を意味するだろう。
つまり選択などありはしない。
進むしかないのだ。
前線と化した国境付近両街道から離れることおよそ数日の場所にあるハイラス領都の主城執務室にて、エルシィは宙に浮かべた数枚の虚空モニターを眺めていた。
彼女の傍らにはキャリナやフレヤと言った側仕え衆、そしてライネリオやホーテン卿までがいる。
「両軍、相対する位置まで来ましたね。
あー、緊張します」
エルシィが緊張感のない声でそういうと、ライネリオもまた緊張感に欠ける涼しい顔で頷いた。
「ええ、緊張しますとも。
準備したいろいろがお役に立つと良いですねぇ。
さてさて、サイード将軍はあの砦を前に、どうしますか……」
「進軍を諦めてくれれば一番いいのですけど?」
サイード将軍が進軍を一時止めたあの土塁。
そしてハイラス領側に立つ砦は、この一ヶ月で急ぎでっち上げたものだ。
元々、街道整備の一環としてよく踏み固められた場所であったため、地盤はそれなりに強かった。
ゆえに基礎は程々で工事を進めた結果、急造にしてはそれなりに立派に見えるモノが出来上がった。
とは言え、それはあくまで「急造にしては」という注釈入りである。
外に見える壁は丸太を組んだむき出しの木のままであり、漆喰も塗っていない。
いわば巨大なログハウスである。
しかもその丸太は充分に乾燥させたわけでなく、切り出して来たばかりだった。
これから数か月後には木材の乾燥によって隙間やガタが出始めるであろうこと請け合いなのである。
もっとも、この砦はあくまでこの一戦の為に建てたものなので、将来的な展望などは何も求めてない。
ゆえにこれでいいのだ。
「ま、退きはすまい。軍監もおるようですしな」
「ですよねー」
ホーテン卿の言葉で、エルシィは机にくてーと突っ伏した。
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