194セルテ侯国進軍前
セルテ侯エドゴルが配下の兵糧担当より「順調」との報告を受けてから、一〇日ほどの時が過ぎた。
この日、エドゴルはまた同様に軍部からの報告を受ける。
「一六〇〇の兵、準備が整いましてござります。
後は陛下からのお下知があればいつでも出立できもうす」
威風堂々とした態度でそう言うのは、この度の進軍について任されたサイード将軍である。
いかにも立派な板金鎧を着こんでいるせいもあるが、その体形はと言えば見事な逆三角形だ。
特にその腕と来たら、まるで樹齢を重ねた大木のよう。
腕力勝負であれば、ジズ公国のホーテン卿や旧ハイラス伯国のスプレンド卿も軽く上回るだろうと言われている。
少々暑苦しくも頼もしい将軍からそう報告を受け、セルテ侯エドゴルは満足そうにうなずいた。
「うむ、うむ!
それで、今から出発させたとして、ハイラス領へ攻め入るには何日かかるのだ?」
そして上機嫌そうにそう訊ねた。
「はっ、国境を越えるのはおよそ二五日後となるでしょう」
サイードはカカトをそろえて「してやった」という顔をして言い放つ。
だが、エドゴルの顔は不機嫌に歪んだ。
「なんだと?」
「……は?」
サイードもまた、怪訝そうに眉をひそめて、つい、そう声を発した。
主従にてどうやら認識の齟齬があるらしい、と気づくには、これからたっぷり一〇秒は必要だった。
「……なぜそんなにかかるのだ?」
眉間に酔ったしわをほぐす様に指でつまみながら、エドゴル陛下はそう質問を絞り出した。
これでも怒鳴らないだけ、彼としては押さえているつもりである。
とはいえ、それはあくまで本人の主観であり、周りの人間からすればどう見ても不機嫌なオーラが部屋に充満している。
「なぜ、と申されましてもな……」
これまた不機嫌そうに口を尖らせたサイード将軍だ。
「なんだと?
……いや、俺も若い頃には国境まで視察に行ったことがある。
だが休み休み進んでも一〇日とかからなかった。
俺も侍従もお前たち軍人から比べれば脆弱な身体能力しか持たんはずだ。
それでも一〇日だ。
なのにお前たち、鍛え抜かれた兵卒が、なぜその倍以上の時間かかるのだ!?」
業を煮やしたという風で、エドゴルはがなり立てた。
サイード将軍はそんな主上の態度に、大きなため息をついた。
「それは陛下が即位する前のお話ですな?」
「ああ、まだ太子時代のことだ」
サイードはため息の後、幾らか冷静さを取り戻して確認する。
そして当時のことを思い出す。
当時、すでに彼はいち従騎士として軍務についていた。
ゆえに、エドゴルの視察の旅のこともある程度わかっている。
それは即位前に自国のことを知る目的で行われる、国内巡察の旅行である。
まぁそれは爵位を継いでこの領を治める為の、一種の儀式のようなものだった。
メンバーは当のエドゴル太子と侍従、近衛士と言ったお側衆と、騎士府や警士府から数名ずつ護衛が付いたというものだ。
総勢で一〇人程度だったと記憶する。
サイードはどう言えば伝わるのか。
と悩みつつ口を開いた。
「あー……陛下。お言葉を返さざるを得ぬ失礼をお許しくだされ」
「いい、許すのでよくよく釈明せよ」
釈明、とは理解を求める為によくよく説明するという意味ではあるが、たぶんに「言い訳して見せろ」というニュアンスも含んでいるように聞こえた。
ゆえに、サイードはこめかみに血管を浮き上がらせつつも、穏やかを務めて公爵を始めた。
「陛下。個人の……少人数の移動と、一〇〇〇を超える行軍を一緒に考えられては困りますな」
「ん?」
まず、サイードのそんな言葉でエドゴルはキョトンとした。
何か根本的な勘違いがあるのではないか。
そういう気づきである。
気づきはあるが、それでもここで口を出すのも良くないと、そのまま黙って続きに耳を傾けた。
「陛下のあの旅では、陛下含めてすべての者が騎乗していたと記憶します」
「む、そうだな。
……そうか、軍部のほとんどは歩兵であったか。
いや、それにしても?」
エドゴルの気持ちは軟化したが、それでも疑問は残った。
歩兵とは言え、馬だって駆け足していた訳ではない。
倍以上の時間がかかるものなのか? ということである。
「陛下の疑問は判り申す。
馬と人間の徒歩の速度にどれほどの違いがあろうか、とお思いなのでしょう?
確かに比べれば人の歩く速さが馬の半分以下、ということはありますまい」
実際のところ、馬の歩く速度は人間の歩く速度の一.五倍というところだろう。
「で、あろう?
ならばなぜ、それほど日数に差が出る?」
「それはですな、馬は歩き休むだけで良いが、人間は歩いた上に馬や自分たちの食事を用意し、寝る為の天幕も張らねばなりませぬ。
「俺たちも旅の途中に天幕を張ることはあったが?」
「すべてではありますまい?
半数は町や村で宿を求めたはずです。
が、一〇〇〇を越える人間が寝泊まりできる宿が確保できましょうか?
「……ふむ」
「また数が多くなればどうしても足の遅い隊と早い隊があり申す。
かといって遅い隊を置いていく訳にも行きますまい?
かくゆえに陛下たちのように少人数で動く旅とは比べ物にならぬ時間がかかるモノなのでありもうす」
エドゴルはこうした説明を感心しながら聞いた。
ただの武骨者か思っていたが、この将軍、なかなかに頭も回るではないか。と。
まぁこれはただの侮りであり、実際にはそれなりに頭脳がないと将軍など務まらないのだが。
それにしても。である。
納得はしたが、かといって二五日もかかるのでは遅すぎないか?
とエドゴルは思案した。
何かと話題に上がるかの戦役。
旧ハイラス国がジズ公国に攻め入り、逆撃を受けるまで、旧ハイラス軍の招集から数えたとしても一ヶ月程度という電撃戦役だった。
はたして今回の侵攻、それほど時をかけても大丈夫なのか?
読まれ、逆に攻め込まれた時に困るのではないか?
そういう不安がエドゴルにはあった。
「我らの動き、読まれてはいまいな?」
「何でも陛下は先ごろ、『山の民』を雇ったそうではござらんか。
その者たちに防諜させておるのでしょう?」
「それは……まぁ、そうだな」
名前は忘れたが、あのねこ耳男には確かにそう任せた。
あの男も「『山の民』のやり口はよくわかっている。防ぐのは容易である」と豪語していたからには大丈夫なのだろう。
エドゴルは幾らか心を落ち着けて背もたれに身を預ける。
ところでちょうどその頃、ハイラス領ではエルシィが執務室で元『山の民』、現『アントール忍衆』棟梁アオハダとお茶をしながら報告を受けていた。
「あ、そう言えばアオハダさん。お山からの離脱者がいたそうですが、そっちは大丈夫なんですか?」
アオハダはしばし「何を問われたかわからない」という顔をしてから、大きな声で笑った。
「あははは、いや失礼。クヌギたちの事ですにゃ。
いやはや……あやつらは確かに若手の中ではやる方ですがにゃ、なに、心配には及びませんにゃ
我ら一人前の忍衆からすれば子猫も同然にゃ」
「なるほどなるほど、これは頼もしいですね」
「任せてくださいにゃ!」
セルテ侯国の軍事行動は、筒抜けであったという。
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