193意志の方向性
縦深防御。
なるほど、それは確かに負けにくい作戦だろう。
やりようによっては必勝と言ってもいい。
と、納得しながらもエルシィは悲しそうに首を振った。
「それはダメです」
「なぜです? これなら兵の損耗は最小限に抑えられますよ?」
エルシィの否定の言葉を、ライネリオは涼しい顔で跳ね返す。
エルシィはため息をつきながら答えた。
「確かに兵の損耗は少なく済むでしょう。
その代わり、国民と国土に大きな負担を強いることになります」
つまり、ライネリオの提唱する縦深防御とは、そう言うことなのである。
敵進軍ルート上の民草を人の壁として利用し、場合によっては物資の引き上げなども行うことで焦土と化すのもありだろう。
「人は石垣、人は堀、って聞いたことあるわね。
こういうこと?」
と、これは神孫の双子、姉の方バレッタの言だ。
人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり。
武田信玄の言葉だと言われている。
これは「強固な防衛施設があっても有益な人材なく、また民心が離れていては役に立たない」と解釈される言葉だ。
が、前半だけ聞けば「肉の壁が有効だ」という意味にも捉えられかねない言葉でもある。
はたしてバレッタがどちらの意味で言ったのか。
そもそも彼女がどこでその言葉を聞いたのか。
ともかく、エルシィは心が少し軽くなったような気がして苦笑いを浮かべた。
緊張感が冗談で幾らか飛んだような気分だ。
もっとも当のバレッタは冗談を言ったつもりはなく、なにか良いこと言った、という風なドヤ顔をキメているのだが。
さて、縦深防御である。
確かにこれは有効な戦術ではあるのだろうが、それはエルシィの求めるところではない。
「兵の損耗を抑えるのは確かに大事です。
ですがわたくしは、それ以上に国民と国土を守りたいのです。
それなくして、何のための国家なのですか」
国家の成り立ちとはなんであるか。
それは、その体裁を守るために出来たのではない。
そこに住む人々の生活を守るために出来たはずなのだ。
人々の生活を守るために税という形で財を集め、守るべく様々な戦いに身を投じるのが国家の役割である。
これは、エルシィの基本的な思想であった。
逆説的に、その人々の生活を守るために、人々を犠牲にしなければならないこともあるだろう。
だがそれでも、他の道があるならば出来る限りそうしたい。
それが彼女の人情であった。
また、国民国土の損耗を抑えたいのは人情に限った話ではない。
エルシィはハイラス領内をもっともっと開発していきたいと思っている。
エルシィの考えを理解して動いてもらえる頭数が足りないゆえに実行に移していない開発策がまだあるのだ。
その最たるものが農業政策であり、これを実行するために国民には多大な協力をお願いしなければならない。
というのに、その前の段階で消耗させては成るモノも成らない。
そんな訳である。
ライネリオはエルシィのこの言葉を大変満足そうに聞き入って、また恭しく、今度は気持ちを込めて頭を下げた。
「エルシィ様の仰せのままに」
彼はおそらく、エルシィがそう答えるのを理解した上で、先の様な献策をしたのだ。
エルシィはやり込められたような気持ちで頬をプンと膨らます。
「ライネリオさん。他に何か考えているのでしょう?」
「そうですね。次善策がございます」
「それは?」
「砦を築きましょう。彼らの侵攻ルートに」
ライネリオまるでさっきの献策など無かったかのように改めてそう述べた。
「砦、でしたか。さて、間に合いますか?」
エルシィは問う。
彼女が、いや丈二が知る我らの世界の建築にて、一戸建ての家を建てるだけでも数か月から半年はかかるはずだ。
それを砦という、どれほどの規模を考えているか判らないが、それでも一軒家よりは大きいと思われる構造物を、セルテ侯国が攻めてくるまでの間に果たして立てることができるのか。
だがこの問いもまた、ライネリオは涼しい顔で受け止めた。
「まだ兵糧を集めている段階だと聞きました。
であれば進軍を開始し国境線へ到達するまでひと月以上はありましょう。
大工を集め、防衛にかかる兵たちも投入して総力を挙げればおそらくは」
ちなみにエルシィは少し勘違いしているが、我らの住む現代の日本で一軒家を建てるのにそれだけ時間がかかるのは、あくまで少ない人数で、また別の場所にある別のお客の家と並行しつつ建築を行うからだ。
人材とお金を投入して急げば、もっと早く建つのである。
そしてそれは、こちらの世界でも同じだ。
人は集められるらしい。では……。
「予算はどうします?
人を動かすには金がかかるし、砦を建てるなら材料費だって馬鹿になりませんぞ」
と、これは画面越しリモート参加のクーネルからだ。
彼は元々軍人でありながら財務にもある程度通じているし、今は太守として街を切り盛りしなければならない立場だ。
そうなるとお金の問題は無視できない。
ライネリオは小さくため息をついてエルシィを見る。
彼は知恵を出しエルシィの補佐をする立場ではあったが、権限はない。
ゆえにこの件に関しては上司まかせである。
エルシィは中空に視線を移して、頭の中のそろばんでちょちょいと計算をする。
「いいでしょう。
国庫からはちょっと厳しいので、なんなら伯爵家の財産から出します」
「ではそこに、ユリウス氏の財産も付けてはどうでしょう。これで充分なはずですね」
ライネリオがニッコリとそう言った。
ユリウス氏はこのハイラス領都にて吟遊詩人たちの元締めをしていた人物だが、先日、テロ組織の一員として捕らえられていた。
その財産は一時的に差し押さえられて沙汰を待つ段階であったが、この世界の一般的な司法なら逆賊の財産は没収も妥当であった。
彼の財産であれば、それは一個人と考えればそれなりに莫大である。
これにて、砦を建築する案は全会一致で承認された。
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