190セルテ侯と旧ハイラス伯
注意! 今回はおっさんしか出て来ません
セルテ侯国は領都の主城執務室にて、セルテ侯爵エドゴルは配下の者からの報告を受けていた。
「軍の招集令は発しました。今回集まるのは先日お話ししました通り兵数一六〇〇ほどになります」
「ふむ、しかたあるまい。まさかそれぞれの国境を空にするわけにもいかぬからな」
セルテ侯エドゴルは自国領土の南西に突き出た大きな半島、旧ハイラス伯国を、いつの間にか攻めとる気になっていた。
彼にあるのは「やらねばやられる」という焦燥感だ。
出来れば全軍を上げてかの領地へ攻め上がりたいところだが、セルテ侯国が抱える国境線は何もハイラス領側だけではない。
内陸に広い領土を持つセルテ侯国に陸路で隣接する国は多い。
陸路で接するのがセルテ侯国だけ、というハイラス領とは話が違うのだ。
自国の領土を思い浮かべつつ黙考するエドゴルに、軍務に従事する報告者は小さく首を振った。
「この領都もです陛下」
セルテ侯国領都は、広い領土のちょうど真ん中より、ややハイラス領に近い位置にある。
たとえ彼らが攻め上がる側とはいえ、油断できるものではない。
「そうだな。あの愚か者はそれで逆撃を受けたのだ」
エドゴルは、少し前にジズ公国へと攻め入り、逆撃を受けてハイラス伯国を失った甥御を思い浮かべる。
旧ハイラス伯爵家最後の伯爵、ヴァイセル。
四十路のエドゴルより一〇ほど若いこの男は、その歳に似合わずフラフラとした遊び人だ。
それが何を思ったか、父の国葬に来たジズ大公を人質にとってジズ公国へと攻め入ったというのだから酷い話である。
そう、正気を疑っていたのだ。
だが、今ならエドゴルもヴァイセルの気持ちがわかるような気がした。
ヴァイセルを追い出しハイラス伯爵となったのは、たった八歳の少女殿下だという。
どうせお側衆の傀儡だろう、と思って特に外交もせず放っておいた。
それがどうだ。
気づけば緩衝地帯と思っていたアンダール山脈を制し、そこに根を張る『山の一党』を配下に加えたというではないか。
こうなれば子供だろうが傀儡だろうが関係ない。
ともかく、ハイラスを差配する何者かはやる気なのだろう、と判断せざるを得なくなった。
何をか?
それはセルテ侯国への侵攻をだ。
「兵糧の方はどうだ」
「そちらはあと一週間もすれば、一六〇〇の兵が三ヵ月は飢えぬ程度に集まるかと」
「三ヵ月で国境を通過できるか?」
国境さえ突破してしまえば、後はそちらで現地調達すればよい。
だが……、とエドゴルは懸念を表する。
「充分かと存じますが、もうしばらく待てば麦の収穫も始まりますので、もっと集まるでしょう」
「なるほど、多少長期の出兵になっても問題なさそうだな」
エドゴルは満足そうにうなずき、報告者に仕事へ戻るよう手を払って促した。
「叔父貴、ちょっといいかい?」
すれ違いにやって来たのは先ほど思い浮かべていた愚か者。
旧伯爵家最後の当主となったヴァイセルだ。
こやつ、どんどんなれなれしくなるな。
と、眉間に小さなシワ寄せながらを、エドゴルはため息をついた。
「なんだ。執務室には来るなと言ってるだろう」
「まぁいいじゃないか。
それで、またちょっと都合して欲しいのだけど……」
叔父からの苦言もまったく気にした風でなく、ヴァイセルは肩をすくめる。
「またか……」
エドゴルはさらに深くため息を吐いて、執務机の引き出しから硬貨を数枚、むき出しのまま握って机上に放りだした。
つまり、ヴァイセルは小遣い銭の無心に来たのだ。
彼は現在、セルテ侯爵家の客人として、特段仕事らしい仕事も与えられずブラブラしている。
エドゴルから「無能」と思われているので、こうして飼い殺されているのだ。
とは言え、こう度々金の無心をされると、エドゴルもかなりうんざりとした気分になってきている。
考えなければならないことが多い昨今ならばなおさらだ。
ゆえに、エドゴルも深く考えず小銭を与えて追い出す方向で手を討とうと考えているのだった。
「助かるよ叔父貴」
ヴァイセルは悪びれもせず、机上の硬貨をかき集めてポケットにしまいこむ。
この数枚の硬貨だけでも、庶民が数日働いて手にするくらいの金額である。
「いいから行け、俺は忙しいのだ」
そんなヴァイセルを冷たい目で一瞥し、エドゴルはそう言いながら手元の報告書へと視線を移した。
あとはヴァイセルが退出したら終わる話である。
いつもならそうであった。
だが、ヴァイセルは中々出て行こうとせず、ぽつりと口を開いた。
「叔父貴、ハイラスを攻める気かい?」
エドゴルの眉がピクリと上がる。
特段秘密にしているわけではなかったが、公言しているわけでもない。
とは言え、この無能が気付くとは思わなかった。
そういう顔である。
「ああ。心配するな。お前に出兵せよなどとは言わん」
「そんな心配はしてないけどな。
まぁ急にその気になったみたいだからちょっと気になったんだ」
ヴァイセルは肩をすくめて何気なく言う。
「なに?」
その、何気ない一言がエドゴルの心に引っかかった。
言われてみれば、と人差し指を眉間に当てる。
俺はハイラス領に攻め入る気など、無かったのではないか?
そう、思ったとたん、脳裏に霧がかかったように思考が曇り、その次の瞬間にはその疑問自体が霧散した。
「叔父貴?」
エドゴルの様子に眉をひそめ、ヴァイセルは心配げに声をかける。
「何でもない。お前は何も心配することはない」
以降、エドゴルは元の平坦な声に戻り、ヴァイセルに冷たい視線を送った。
ヴァイセルは肩をすくめ、退出の挨拶を口にしてから執務室を辞した。
ヴァイセルは廊下を歩きながら呟く。
「こりゃ、女神にでもそそのかされたかな。
俺の時みたいに」
誰も聞くことのないつぶやきと共に、ヴァイセルはこの先に身の振り方について、思いを巡らすのだった。
次回更新は金曜日です




