188温泉回
「ばばんがばんばんばぁん はぁひばひば」
湯気の合間からご機嫌な調子が聞こえて来る。
どこまでも広がる蒼い空を望む露天の元、石とモルタルで組み上げた広い槽に四人の乙女が湯につかり、ゆったりとくつろいでいた。
ここは極楽、別世界。
などと申しますところの温泉である。
上を見れば空。
なれば湯船のヘリから望む眼下はと言えば、これまた木々の薄い山裾が見える。
「絶景と言うやつね! おそれいるわ!」
湯からざばっと立ち上がり、そう言うのは日に焼けたような薄茶色の短髪がよく似合う活発そうな少女。
エルシィの最側近にして最初の家臣と言われる神孫の片割れ、バレッタ嬢である。
まだ双丘緩やかな幼い肢体を風の元に晒し、堂々たる仁王立ちである。
もっとも、ここにいるのは女性ばかりが四人なので誰にはばかることもない。
「ところでエルシィ様、さっきのお歌はどのようなものですか?
ボク、初めて聴きました」
バレッタの行いを眺め同意にとうんうん頷いていた、ダークブラウンの前髪で目を半分隠すバレッタ以上に薄い肢体を持った女の子がそう訊ねる。
今やハイラス領都にて一躍有名スターとなりつつある吟遊詩人、ユスティーナ嬢だ。
エルシィと呼ばれたのは、もちろんこの人。
ジズリオ島を本貫に持つジズ公国が一の姫君にして、その中身はこの世界の女神を称する怪しい女から招致された商社マン上島丈二その人である。
「これはですね~。
こうして素晴らしい湯に巡り合えた時、その感動を表し湯を褒め称える歌です」
「なるほどー」
まぁ、元々男とはいえ今は女児の身体にいるせいか、メンタルがすでにおっさんのそれではなくなってきてる自覚がある。
その証拠に女性に囲まれ温泉に浸かっているこの状況で、劣情なる気持ちが全く湧いてこないのだ。
もっとも、自分を抜いても半数以上が幼女児と言えるこのメンバーで興奮するようでは社会的に大きな声を出すわけにもいかぬだろうが。
とは言え、一人は妙齢の女性がいる。
その唯一の成年女性、エルシィお付きの筆頭侍女キャリナ女史は、まぁいつもなら目くじら立てて苦言を呈するところだが、まだ黙ったまま湯を堪能していた。
今日のところはこの湯に免じて、と言うところだろう。
「アベルー! そっちはどうかしら?」
と、そんな緩やかな気持ちでいると、風で幾らか体が冷えてジャブっと勢いよく湯に身を沈めたバレッタが大声を上げた。
その呼びかけ先は、大きな石組みの湯舟を真ん中で隔てる為に建てられた背の高い柵の向こうだ。
その向こうからは、まるで呼びかけに応えるように大きな水音がした。
何かが水に落ちでもしたかのようなボチャンという音だ。
そんな音がしてからシーンとしていた向こうからは、しばらくしてやっと返事が返って来る。
「姉ちゃん、頼むから風呂入ってる時くらいは静かにしてくれ」
その声は神孫の双子の片割れ、バレッタの弟であるアベルだった。
柵の向こうは当然ながらに男湯であり、アベルはそちらに浸かっているのだ。
「何よいいじゃない。姉弟が話をするのに温泉も何もないのよ!」
理屈はメチャクチャだが彼女の押し強い言葉には、その場で聞いていると妙な説得力がある。
ゆえにアベルも返事に窮して「ぐっ」と小さく呻いただけだった。
それ以上返事がなかったのでバレッタは肩をすくめて女湯のメンバーを見回した。
見回し、さっきまでは湯を堪能する緩やかな表情だったキャリナの眉間にしわが寄っているのに気付く。
「やーねーキャリナ。そんな顔して。
何か困りごとがあるならあたしに頼ってもいいのよ?」
「ええ、そうですね。ぜひ私の杞憂を晴らして欲しいモノです」
それでも、この湯に免じて、キャリナは声を荒げなかった。
エルシィとユスティーナは彼女の心労を察して苦笑いを浮かべながら、顔を見合わせて肩をすくめた。
「アベル君、お姉さんは元気だねぇ」
「元気っていうか……うるさいだけだ」
さて、こちらは男湯である。
こちらはこちらで一人の男児と、それからあと二人の老偉丈夫が並んで湯に浸かっていた。
アベルに語り掛けすげなく返されたのは、老いてなお美しいと評される金髪の元将軍、スプレンド卿だ。
彼はアベルの反応を楽しそうに目を細めて聞く。
そしてもう一人が鍛え抜かれた身体に老いてなおまだまだ健康頑強な騎士、ホーテン卿である。
「がっはっは、元気が一番だ。子供はうるさいくらいでちょうど良い」
「ええぇ……」
豪快に笑い飛ばすホーテン卿の言葉に、アベルは少し嫌そうに身を引いた。
そのうるさい姉に煩わされるのは、いつも自分なのだという被害者感がアベルにはあるのだ。
「そうか、アベル君は元気なお姉さんがお好きではないんだねぇ」
「いや別に嫌いじゃないけど……」
スプレンド卿が特に深い意味を持たせたわけではない程度にそう言うが、アベルは慌てて言い返した。
まぁ、その言葉尻はごにょごにょと湯気の合間に消えて行ったのだが。
アベルにだって姉弟と言う家族間の親愛情くらいはあるのだ。
というか生まれた時から一緒にいる双子なので、それはまた言葉に表し難い何かがあるのは間違いない。
とは言え「姉が好きだ」などと大きな声で言えるほど、アベルの精神は大人でもないのだった。
「そうかそうか。姉は好みではないのだな?
では……そうさな、例えば我らが陣の女性たちの中では、誰が好みなのだ?」
「んん!?」
姉のことをどう例えよう、などと煩悶としていたら、今度はホーテン卿からとんでもない球が投げられてきた。
「い、いや、そんなこと考えたこともない!」
アベルは顔を真っ赤にしてあたふたと答える。
老人二人はその様子をニヤニヤとしながら眺めるのだった。
これはもう、初めからアベルをからかおうという、二人の無言の連係プレーなのである。
「何やら向こうも楽しそうですね。
誘って良かった」
話の内容までは聞こえないが、それでも男たちのにぎやかな様子は女湯にも伝わる。
エルシィも微笑ましい気分になってはふぅと息をついた。
そもそもなぜこのメンバーで温泉にいるか。
これはありていに言えば慰安旅行なのである。
元はジズ公国にいた頃から苦労掛けてるキャリナを休ませてあげたい。と言う発想から考えていたことだった。
初めはジズ公国ティタノ山にあるお社近くの温泉に行くつもりだったが、色々とあったせいで結局は行く機会がなかった。
そんな折、この度自陣として組み込まれたアンダール山脈にもまた温泉があると聞き、こうして皆でやって来たという訳だ。
時期的にもアントール忍衆が仲間に加わったあたりからやっと余裕も見え始めたので思い切って休みにしてみたのだ。
とは言え、これを機にとキャリナとも主従登録をして、元帥杖の権能でひとっとびなので宿泊すら必要ない温泉旅行なのだった。
そうして皆が楽し気に湯と戯れていると、脱衣所の方から俄かに騒がしい足音が聞こえて来た。
「エルシィ様、至急の報告があるとカエデが……」
やって来たのは職務上温泉に浸かるわけにもいかなかった近衛士のフレヤだった。
ちなみにもう一人の近衛であるヘイナルは、まだ領都で新しい近衛府の為に奔走中である。
「何がありましたか?」
カエデから、と言うことは国境を接する他国の情報収集に走ってもらっているアントール忍衆からのモノだろう。
カエデは未だエルシィのお付きメイドの仕事をしている。
しながら、アントール忍衆とのつなぎ役として働いてもらっているのだ。
エルシィの訊ねかけにフレヤの後ろからついてきていたカエデが顔を見せ、ねこ耳を伏せて畏まる。
「エルシィ様に忍衆からのからの報告を伝えるにゃ。
隣国が……セルテ侯国が出兵の準備を進めているにゃ」
「詳しい話は客間の方で聞きましょう」
ついに来たか、とため息を吐きながら、エルシィは湯船のヘリからよっこいしょと上がった。
今回から三章始まります
次話は金曜掲載します




