186セルテ侯エドゴルの憂鬱
エルシィがアンドール山脈改め、アントール子爵領を制してからおよそ一旬が過ぎた。
その頃、セルテ侯爵エドゴルの元に一つの知らせが届く。
「『山里の民』からの連絡が途絶えたと?」
エドゴルはその知らせを、セルテ主城の執務室で聞いた。
聞いて、その意味をしばらくかみ砕く。
『山里の民』はアンドール山脈に根を張る『草原の妖精族』の一族で、独立した小勢力だった。
もっとも、その独立も彼らの住むアンドール山脈を挟んだ旧ハイラス伯国とセルテ侯国が黙認していたからこその独立であった。
両国がなぜ黙認していたかと言えば、それは『山里の民』に利用価値があったからだ。
その利用価値とは他国の諜報や破壊工作である。
『山里の民』は高い隠密性であちらこちらへと忍び込み、他国の情報を集めるのに適していた。
また非常の際に敵国の要人を弑する仕事にも手を染めたと聞く。
その『山里の民』からの連絡が途絶えた、と。
これが何を意味するのか。
「もう少し詳しく報告せよ」
「はっ」
問われたエドゴルの侍従は畏まり、改めて背筋を伸ばしワザと音を鳴らしてカカトをそろえる。
セルテ侯国における敬礼に準ずる仕草だ。
「陛下もご存じの通り、現在『山里の民』にはハイラス伯国を侵略したジズ公国が姫、エルシィなる人物の周辺を探るよう依頼しておりました」
「うむ」
エドゴルは頷き、手振りだけで「続けろ」と命じる。
「報告は七日おきに届けるよう約を交わしておりましたが……」
「その報告が途絶えた……と言う訳か」
「はい。連絡の期日から三日ほど過ぎております。
何かと気まぐれな奴らですが、三日過ぎて何の連絡もないというのは異常事態の前触れかもと思い、報告いたしました」
「うむ……」
エドゴルは再び思案に沈む。
よもや諜報活動がハイラスにいるエルシィとやらにバレて捕まりでもしたか。
まぁそれはそれで構わないだろう。
山里の民など、所詮は他勢力の人間である。
自国の民でないなら、それがどうなろうと知ったことではない。
そもそも、様々な工作を金をもって受ける奴らのことだ。
それくらいの覚悟もあろう。
問題はエルシィとやらがどう動くか、だろうな。
そこまで考えてエドゴルは前ハイラス伯家が滅びた経緯を思い出す。
いや、生き残りである前伯爵ヴェイセルは、今、この国でのうのうと過ごしている。
が、奴が浮き上がる目はもうないだろう。
それほど有能ではないし、何ができるとも思えない。
つまり、旧伯爵家は滅んだということだ。
ともかく、旧伯爵家はなぜ滅んだか。
それはジズ公国に手を出し、件のエルシィ姫が率いる兵に逆襲されたからだ。
この話を知っている以上、現在のハイラス領へ手を出すなら慎重を期すべきだろう。
エドゴルはそう判断し、侍従に指示を出す。
「ひとまず手の者に里の様子を見て来るように命じろ。
旅の商人にでも扮すれば邪険に扱われることも無かろう」
「承知しました。すぐ手配します」
侍従は再びカカトを鳴らして返事をすると、すぐに命じられた任を果たすべく退出していった。
見送り、エドゴルは大きな背もたれがある執務椅子に深く身を預けてため息をつく。
「やはり、油断ならぬ子供と言うことか?」
誰に問うでもなく、そう呟く。
返事をする者などいない。はずであった。
「あら、私は何度かそう言ったでしょう?」
だがその言葉を拾って、呆れたような、また少しおかしいようなクスクス笑いを含んだ言葉が背後からやって来た。
エドゴルは小さく舌打ちをもらして振り向きもせずに口を開く。
「またお前か。怪かし女が」
「前に名乗ったでしょう? 神を前にしてずいぶん不遜じゃない」
「ふん、俺は無神論者だからな。
神? そんなもの、心の弱い者が縋る幻想にすぎん。
おおよそ、貴様のような怪かしが誑かしておるのだろう」
そう言われつつも、神を名乗った女は特に応えた風もなくただ肩をすくめた。
「私は運命をつかさどる女神。あなたが信じようと信じまいとね。
それが私の真実なのだから。
あなたには何度でも忠告をあげる。
あの子供は危険だから排除なさい。
今に、あなたの国を滅ぼしに来るわよ」
その言葉はエドゴルの身体に、毒のようにしみ込んでくる。
「子供にそのような力があるものか」という思いを溶かし尽くし、「やられる前にやれ」という意識が彼を支配しようとする。
エドゴルは耐えかねて、執務机の下に置いてあった護身用の細剣を抜いて振るう。
「失せろ怪かし女! 運命をつかさどるだと?
何様のつもりだ。
俺と俺の国のことは、俺が決める!」
必殺のつもりで振るった細剣は宙を斬った。
それもそのはず、さっきまでそこにあった女神を名乗る気配は、すでにそこには無かったのだ。
「あの妖怪、いったい何が目的だ。
そんなに俺の国を……世界を乱したいのか」
エドゴルが憎々し気に宙を睨んだ。
と、その時、またさっきとは違う侍従が執務室を訪れた。
「陛下。その……『山里の民』を名乗る若い男が、陛下との謁見を求めてまいりました。
普段なら話だけ聞いて追い返すところですが、状況を見ると陛下の判断を仰ぐべきかと……」
「よい、会おう」
「はっ、ではすぐに準備いたします」
侍従は申次を捕まえて慌てて指示を飛ばしながら駆け出て行った。
エドゴルはもう一度、執務椅子に座ると、大きなため息をつく。
「まったく、面倒の多いことよ」
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