176壁の向こうから
アベルとエルシィが固唾を飲んで見守る中、音は暗がりの向こうから続けて聞こえて来た。
いや、暗がりの、というのは正しくない。
正確に言えば岩とセメントの様なモノで塗り固められた壁の向こうだ。
ズズズズ……
初め、何かがわずかに動くようなゴトゴトした音だったのが、今度は壁が何か固いモノと擦れるような音に変り、次第にミシミシという壁がきしむ音になる。
そして最後に、メコッという破壊音がしたかと思うと、暗闇の向こうにあった壁がガラガラと崩れた。
「危ない!」
アベルが咄嗟にエルシィの頭にかぶさるよう庇う。
幸い、壊れたのは向こうの一部だけだったようで、他の壁や天井はパラパラと塵やせいぜい小石が脱落して落ちて来ただけだった。
それでもこの礫がエルシィに降り注ぎでもすれば、彼女の頬くらいなら切れたかもしれない。
そんな降り注ぐ塵が収まったことにホッとして、アベルは再び崩落した穴とエルシィの間に立ちふさがった。
「アベル、ありがと」
「……ああ、いい。そういうのは後だ」
すかさずエルシィは小さなお礼を口にしたが、アベルは暗がりの穴を睨みつけたままそう答えた。
アベルの心配事はと言えば、あの壁に大きく開いた穴から何が出て来るのか、だ。
何かが動く音がして崩落したからには、あの奥にはおそらく何かがいるのだ。
果たして、生きている何かか、それとも無機物なのか。
後者であったとしても、この状態では命にかかわらないとも知れない。
例えばあの奥に水源があったとしよう。
その水がここに流れ込んで来れば二人はたちまち溺れてしまうだろう。
アベルは泳ぎが達者であったが、このドーム状の地下室がすっかり水に満たされるようならそれも意味がないのだ。
また固唾を飲んで見守る。
逃げ場もない現状、二人にはそれしか今すべきことがなかった。
ズズ……ズシン
暗がりの穴からまた音がした。
今度は明確に何かの足音だ。
重く、力強い足音だった。
アベルは左手でエルシィが後ろから飛び出さないように庇い、右手をそろりと頭上に掲げる。
いつでも彼の異能である「剣」を呼べるようにという準備である。
そして、四つの眼が見守る中、そいつは暗がりからのそのそと現れた。
それはこの地下室の一/三は塞ごうかという大きさの亀だった。
脚が象のように太いのでいわゆる陸亀なのだろう。
小さな亀であれば可愛いと思えるかもしれないが、二人の大きさを軽く凌駕するその巨亀を前に、二人は危険しか感じなかった。
「亀さんは草食ですよね?」
巨亀のなんでも噛み砕きそうな嘴に注目してブルリと震えたエルシィが呟く。
想像するのはあの口で頭からひと飲みにされる自分だ。
「いや、草食のやつもいるけど、なんでも食べるやつの方が多いって聞いた気がする」
つまり雑食である。
そう話していると、その巨亀のつぶらな目がこっちを見た。
つぶらだが、可愛さはない。
あるのは威圧的な興味。
「わたくしたち、亀さんのご飯になっちゃいますかね?」
「最悪だ……」
戦わないで済むならそれが一番だが、と思いつつ、アベルはそうはならないだろうという予感で掲げる右手に力を込めた。
「シュヴェルト!」
その少年の言葉に呼応し、彼らの周囲に八本の長剣が現れ浮き上がる。
だが、その直後に予想外のことが起こった。
キンキン! という金属と何かがぶつかる音がしたかと思うと、浮かび上がった剣のうち半数が跳ね返ったように舞ったのだ。
「危ない!」
またアベルが咄嗟にエルシィをかばってかぶさる。
今度はさっきの礫のようにはいかず、落ちて来た剣でアベルはいくつかの小傷を負うこととなった。
「な、何が起こったのです?」
金属音がすぐに治まったことを見止めてエルシィが辺りを見回す。
すると舞ったかに見えた数本の剣は、今や地面に散乱していた。
つまり、この地下室が「剣」を展開するには狭すぎたのだ。
これでは彼の『剣の舞』は十全に力を発揮できないだろう。
「ちっ」
アベルは舌打ちをしてまだ宙にある剣と落ちた剣を仕舞い、腰にあった短剣を引き抜いた。
輝かんばかりの銘を持つ名剣たちに比べれば心もとないが、今ここで使うに適した得物はこれしかないという判断だ。
そんなアベルたちの心情には興味が無さそうに、巨亀はのそりと近づいてくる。
まったく全てに興味がない、という訳ではない。
つまりは、自らの食事としての興味しかないのだ。
目の前に盛られた食材が多少跳ねようが、食べる側からすれば「活きが良いな」くらいにしか感じないのだろう。
ともすればより食欲が湧くというものだ。
さて、久々の食材がやって来た。
巨亀はそう思いながらエルシィたちを舐めるように見まわした。
いささか量としては少ないが、肉は柔らかそうだ。
柔らかくて臭くない肉は、それなりに旨い。
巨亀は自分の錆び付いた記憶からそう思い起こし、舌をチロチロと出して喜ぶ。
食事をしよう。
もう何十年と腹にモノを入れてない。
ノシノシとゆっくり歩きながら、巨亀は目を細めた。
「おい、継承権利者の童よ。
おいったら、おい!」
と、その緊迫した状況の中で、エルシィの耳にそんな言葉が聞こえて来た。
エルシィはキョロキョロしながら声の元を探す。
「なんですか? 誰ですか?」
「こっちだ。ここだ!
ワシをはよう助けんか!」
声は前方、つまり巨亀の方から聞こえた。
「お姫さん? どうした! 正気か?」
エルシィの声だけが聞こえていたアベルがゾっとして叫ぶ。
想像して欲しい。
ここに言葉をしゃべる人間は二人しかいないのに、片方が見えない何かと話し始めれば、それはゾッとする。
ともすれば「相棒が狂った」とさえ感じるだろう。
だがエルシィは呼びかけて来る声とその発信元に集中していてアベルの声に応える余裕がなかった。
なぜなら声の発信元が、うっすら開いた巨亀の口の中に見えたからだ。
口の奥で難儀している様子の小さな白兎。
それが声の発信元だった。
「イナバくん!?」
エルシィはハイラス主城の執務机の上でぴょんこぴょんこ跳ねている、国璽の管理者らしいウサギ神を思い出した。
次の更新は来週の火曜日です




