171それぞれの思惑
ホンモチは困惑と疑惑に包まれながら、無言でしばし考えた。
エルシィはなんと言ったか?
家臣になれ。である。
これまでこの山里は、旧ハイラス伯国とセルテ侯国に挟まれどちらに属するか曖昧にしてきた。
「どちらにも属さない」という心情には、過去に自分たち『草原の妖精族』を迫害し、アンダール山脈に追いやった人間たちへの反抗心も多少はあっただろう。
だがもうそれも何世代も前の話である。
今なおそれを続けて来たのは、ひとえに「その方が両国にとって都合が良かったから」だった。
諜報、特殊工作を請け負う彼らは両国にとって便利ではあるが、手繰られると都合の悪い暗部でもある。
ゆえに、両国とも「我が国に属せよ」などとは言わなかった。
また里にしても「どちらかに属します」とは言いださなかった。
なぜなら、ひとたび戦争が起こった時、いち早く里にたどり着いた部隊が里の属する国でなかった場合に、草刈り場にされる恐れがあったからだ。
そうされない為の一つの方策としての曖昧である。
どこかの国が攻め入ってくれば、すぐさまその勢力の旗を掲げて擬態する。
その為に所属を曖昧にしておく必要があった。
だがついに「属せよ」とハッキリ要求する勢力が現れた。
それが今であり、エルシィ率いるジズ公国属ハイラス領ということになる。
この誘いを信じていいのか。
また、里を率いる立場であるホンモチはどう行動すべきか。
国を動かすような大きな政治は摂れぬが、それでも両国に挟まれながら舵取りを行ってきたホンモチだ。
これもまた小規模ながらに政治である。
そんな政治家の顔で、ホンモチは表情を消したままに考えた。
ただ、この要求は拒否することが出来ない。
要求の根拠が、まず『山里の民』がエルシィを暗殺しようとしたことに対する報復の一環なのだから。
例えるならこれはハイラス領と山里の戦争なのである。
その戦争に負けた山里が、その賠償として要求されているのである。
一族郎党滅びるのか、それとも従うのか。と。
そんな苛酷に見える要求の中でも利点はある。
それが「家臣になれ」という要求だ。
ただ単に従属するのと家臣になるのでは大きく違う。
待遇面もそうだし、家臣であれば一種身内として扱われるので使い捨てられることはない。
ホンモチはエルシィのことを「甘い」と思いつつも、この要求には全面的に乗るのが良いだろうと結論を出す。
別に心の奥まで忠誠を誓わなくてもいいのだ。
ひとまずエルシィの軍門に下り、後に都合が悪くなれば離反すればよい。
今までもこの里はそうやって生きて来たのだ
それが両属という生き方なのだ。
そんなことを考えてるんだろうにゃー。
と、カエデは小さくため息をついた。
カエデはまだ一〇歳にも満たない幼い少女である。
とは言え、体術や隠形術においては里の若手の中で一番の使い手だ。
また、それに伴い様々な教育も進んでいるため、幼いわりに成熟した考え方をする。
そんなカエデゆえ、この期に及んで里長であるホンモチが何を考えているかを読むことが出来た。
もちろん彼の考えすべてを読めるわけではない。
そこは数一〇年生きて来たホンモチと一〇にも満たないカエデの差ではあるが、この際はそこまで深いことを読めなくても良かった。
すなわち、彼女に必要なところは「ホンモチが面従腹背を考えている」というところである。
エルシィが普通の為政者であればそれでいいだろうし、これまで里はそうしてやってきたことをカエデは知っている。
が、エルシィはこれまで里の上を通り過ぎて行った数々の支配者とは違うということもカエデは知っている。
具体的に言えば、それら有象無象の支配者たちと、エルシィとでは「家臣」の意味が違うのだ。
エルシィにとっての「家臣」とは、神から授かったらしい権能によって、様々なつながりを持つ言葉通りの「身内」になることなのである。
すでにエルシィへ跪き家臣となったカエデはそれを知っていたのだ。
カエデが暗殺失敗したのちに家臣へ降ることを承諾したのは「まだ若い身空で死にたくない」という気持ちが一番であったが、この選択は正解だったと自負している。
また、その次に「里を滅ぼしたくない」という思いもあった。
ゆえに、ホンモチに対しては「おかしなことしてエルシィ様の勘気に触れにゃいでくれ」と考えていた。
しかし今、カエデがそれをホンモチに言うことはできない。
ホンモチにとってカエデは「里の手駒」でしかない。
たかが手駒からそんなこと言われても聞くとは思えないし、エルシィの権能の話だっていきなり言われて信じるとも思えないからだ。
まぁ、現状ではエルシィの家臣であるカエデの方が、敗戦した里の長より立場は上になるわけだが、それもまだすぐには理解できないだろう。
ホンモチが長考に入ったので、これ幸いとエルシィも先に考えていたことをおさらいする。
このアンドール山脈が旧ハイラス伯国領でもセルテ侯国領でも無かったことについてだ。
両国人、そして里の人間の意識においては「両属だから」、または「独立勢力だから」で済む話ではあるが、果たして元帥杖、ひいては神の意識からしてはどうなのだろう。
元帥杖があらわす地図をよくよく精査してみると、ジズ公国と旧ハイラス伯国の国境線はくっきりと示されている。
ところが、為政者や国に住む人々の意識の上では、そもそも海峡を挟んだ両国では国境などというものは曖昧で、せいぜい「海峡のどこか」くらいの認識なのである。
ではこの地図の国境線を定めているのは誰かと言えば、神に他ならないだろう。
まぁ、神の作ったシステムが、自動的にそう定めている場合もあるだろうが、それもまた神の意志と考えることもできるので、今ここではまとめて神の意志としておこう。
ともかく、この世界のすべてがそうなのか、旧レビア王国圏だけがそうなのかはわからないが、とりあえずこの辺りはそうなのだ。
ではハイラス領とセルテ侯国間の国境についてはどうだろう。
初めは漠然とアンダール山脈の峰あたりに国境線があるだろうと考えていたのだが、よくよく見ればそれぞれアンダール山脈の麓辺りに線があり、アンダール山脈は独立した領地のように国境線で囲まれていたのだ。
判り易く言えばよく見たらハイラス領とセルテ侯国の間に、アンダール山脈という持ち主不明の領土があった。
ということである。
エルシィの疑念はこの領土の扱いにあった。
果たしてこのアンダール山脈という領地を手にするにはどうしたらいいのか。
これは領土的野心ではなく、かなり純粋な好奇心だった。
一つ、一番簡単なのは大航海時代のヨーロッパ諸国よろしく、「現地に行って自国の旗を立てることで領土主張する」であったが、これはすでに試して否であることが確認できた。
では次が「その領土に住んでいる民を臣従させる」である。
常識的に考えればこれが一番当たり前の方策だろう。
そして今、エルシィは『山の民』に臣従を迫る立場にあった。
いよいよ第二考察の結果が明かされようとしていた。




