014お勉強の時間(後)
ともかく、この問題には掛かれそうだとエルシィはホッとして黒石板を凝視した。
まぁ、八歳児にやらせる問題なので難しいことは無いだろう。
とはいえ、数字を理解して上から下まで見れば、簡単なモノから徐々に難度が上がっていき、後半には四桁までの加減算と三桁までの乗除算があった。
八歳児、日本で言えば小学三年生にしてはちょっとだけ難しいが、分数がないだけ楽とも言えるだろうか。
もっともすでにアラフォーであり、さらには小学生時代に珠算三級まで取得しているので、この程度は暗算余裕である。
エルシィはすぐさま右手の人差指と親指で机をテシテシ叩きながら計算を始める。
珠算経験者特有の「脳内算盤を使った暗算」だ。
何をしているのか、と初めは奇異の目で見ていたキャリナとクレタ先生だったが、次々と計算の答えを黒石板に書き出すのを見ると、次第に瞳の色を驚きへと変えていった。
「あらあらエルシィ様、全問正解です。お休みの間によく復習されたのですね」
「ふふ、計算は得意なのです」
褒められて得意そうに胸を張るエルシィだが、小学生レベルの問題なので解けて当たり前ともいえる。
だが、誇れるのは算術だけだった。
語学になるとエルシィの記憶にあるだけなので簡単な現代文しか読めず、史学になるともうお手上げだ。
「まぁ人には得手不得手がありますからね。
ただ女性貴族のたしなみと言えばやはり詩吟や文学ですから、語学、史学はしっかり学ばねばなりませんよ」
クレタ先生はそう言いながら苦笑いして、エルシィの前に小冊子を広げた。
植物紙の冊子だ。
丈二が事務所などで使っていた再生紙に比べてもザラザラで質も良くないが、それでも羊皮紙に比べれば植物紙の方がずっと軽くて扱いやすい。
ヨーロッパ風ファンタジーと言えばだいたい羊皮紙文化なので、古い時代の紙と言えば羊皮紙を思い浮かべる人も多いようだが、中国あたりなら植物紙は紀元前からあるものだ。
したがって丈二の世界とは違う発展をしている可能性の高いこの世界においては、羊皮紙より植物紙が発達していても別におかしいことは無いだろう。
さて、紙の歴史などはどうでもいいので、小冊子の方に意識を戻す。
どうやら子供向けの簡単な、この国の歴史をまとめた冊子のようだ。
「昔、私たちの住むジズリオ島を含む大陸の大半を治めていたのは、レビア王国という大きな国でした」
そんな冒頭をクレタ先生が朗読する。
エルシィは文字を目で追いながら耳を傾けた。
「およそ三〇〇年前、レビア王国内での派閥争いと後継者争いが拡大し、当時のレビア王が崩御したことを切っ掛けに、各貴族領が続々と独立宣言を発しました」
大国の衰退は丈二の世界でもおおよそ似た事件がある。
偉大なる王がいなくなると、その王の威光で治められていた国はたちまち崩壊する。
マケドニアのアレキサンダーしかり、モンゴルのチンギスハーンしかりである。
「大陸西部に大領を持っていたジズ大公は、それでも新レビア王に従い戦いました。しかし、次第に追いやられ、いつしか領土はジズリオ島だけとなってしまいます」
「先生、質問よろしいですか?」
途中、エルシィは気になって手を挙げた。
「はい、よろしいですよ。なにかしら?」
クレタ先生に許可を得て、エルシィは疑問を口にする。
「ジズ大公はなぜ衰退の一途であったレビア王国に従ったのでしょう?
なぜ他の貴族の様に独立しなかったのでしょう?」
「それは大公家がレビア王家の血を引く親族だからです」
答えを聞き、エルシィはぽかんと口を開けた。
大公、公爵と言った位を持つのはだいたい王家の親族である。
これはこの世界ではなく、丈二の知るヨーロッパ世界でもおおよそ常識だった。
日本人に判りやすく言うと、ここで言う公爵家の位置づけと言うのは江戸幕府における御三家御三卿だ。
王家を支え、万が一王家の跡継ぎがいなくなってしまった場合に、その血を継ぐため血を引く子を差し出すのがその役割である。
ただ、世の中と言うのはそう優しく出来てはいない。
そう言う役割として出来た家でも、家を存続させるため時には王家を裏切ることもあるだろう。
血族だから従った、ではさすがに納得しきれない。
おそらく子供には難しいと思われるような裏事情もあったに違いない。
と、そこまで想像してエルシィは思い出した。
そう言えばこのジズ公国でもつい最近、国主が亡くなり中継ぎの為にその妻が大公位を継いだという話がある。
エルシィの父と母の事だ。
先日この話を聞いて同じように「争いが起きなかったのか」と尋ね、「この国では歴史上、後継者争いが起きたことが無い」と言われて唖然とした憶えがある。
もしかするとこの国、いや大公家の人自体が、昔から真面目でどこか暢気で、与えられた役割を愚直に果たすような人柄だったのかもしれない。
ゆえにレビア王国が乱れた時、独立もせず、新しく立った王を支えるために奮闘したのではないだろうか。
滅びゆくのが判り切っているのに、最期まで。
「レビア王国の領土が残された大公領、つまりジズリオ島のみとなった時、レビア王国の新王は長い逃亡生活の疲労から病にかかり、もはや死に瀕していました」
そう、最期だ。
大陸の大半を治めた王国も、動き出した独立の機運に流されれば、もはや滅亡するか、小国として生まれ変わるしかない。
「結局、大公家からの手厚い看護も虚しく、レビア新王は王国最後の王として喜びの泉へと召されますが、その際、当時のジズ大公はレビア新王より金璽を譲られました」
「きんじ?」
レビア王国の金璽とは、王国の権を象徴する印である。
言わば、正統なるレビア王の証と言えるものだ。
「レビア王は言いました。『この金璽の受託をもって、ジズ大公家をレビア王家の正統な後継者と認める』と。
それから、ジズ大公は大公領ジズリオ島を国土としたジズ公国の建国を宣言いたしました」
それがジズ公国の始まりとのことだった。
エルシィはふむぅ、と思案する。
古い国家にはよくある、正統性を主張する為の国譲り話だろう。
ただレビア王より『正当な後継者』と認められたのに、レビア王国を名乗らなかったのはなぜだろうか。
おそらく、当時の戦乱を納める為に、レビア王国が消える必要があったのではないだろうか。
戦いの決着の為にも「レビア王国は滅亡しました。あなた方の戦争は終わりですよ」と、そういう流れで独立諸国と話を付けたのだろう。
その後もクレタ先生はジズ公国歴代大公の業績について読み上げていたが、レビア王国滅亡に至る裏事情を想像するエルシィには、あまり届いていなかった。