013お勉強の時間(前)
昼食と親子の歓談を終えて二階の部屋に戻る。
午後の予定はお勉強らしい。
「ではエルシィ様。支度をして行きますよ」
部屋にたどり着き一息ついたところでキャリナがすかさずそう言った。
疑問に思ってエルシィは「ほへ」と、口を開けて首を傾げる。
今帰って来たというのに、どこへ行こうというのだろう。
「お勉強のための部屋に決まっているではありませんか。この部屋ではお勉強できませんでしょう?」
呆れた風に部屋を指し示すキャリナの手を目で追ってみれば、なるほど、勉強机も無いこの部屋では、出来て読書と言うところだろうか。
いや、もしこの世界の本が羊皮紙による物であれば、とても書見台無しには読書も出来ないだろう。
丈二は海外出張の折にヨーロッパの古書店で羊皮紙の本を手に持ったことがあるが、あれはとても重いのだ。
「そうですか。では教科書の類はどこでしょう?」
納得して支度に掛かろうと、エルシィはキャリナの目を見上げて訊ねる。
が、キャリナはゆっくりと静かに首を振った。
「教材はすべてお勉強部屋にございます。エルシィ様のすべき支度は着替えです」
「はえ?」
午前中は出歩くために動きやすい乗馬服に着替えた。
その服から昼食前にまた着替えているので、今はシンプルながらもかわいらしいヒラヒラしたスカートだ。
歩き回るのには邪魔だろうが、机に向かうのに過不足は無いように思う。
「それぞれに相応しい服装というものがあります。
そうした事柄をわきまえないと、大公家の姫として恥ずかしいですよ」
と、そういうことらしい。
非効率的だなぁ、とか、疑問不満はいくらでもあるが、ここでキャリナに逆らっても仕方がない。
エルシィは黙って頷き、キャリナに従って着替えさせられた。
今度は装飾が少ない、茶や紺をベースにしたシックな服装だ。
制服が無い小学校の卒業式で見かけそうな子供礼服、と言うと近いかもしれない。
着替えが終わると、キャリナと近衛府から戻ったヘイナルに連れられて廊下を歩く。
いや、本来の主従で言えばエルシィが主であり「連れて」と表現するのが正しいが、キャリナを先頭に後をついて歩いているので、実質的には「連れられて」が正しいのだ。
どちらにしろ、この館の事も城の事も、世界のことすらわからないエルシィは、こうして連れられて行くしかないのである。
などと益体も無いことを考えつつ、三人はしばし廊下を移動してある部屋の前で止まった。
キャリナは静かにノックして「姫様の御成りです」と声を掛ける。
声を掛け、返事も待たないうちにヘイナルがドアを開けた。
同じ二階にあったその部屋には執務用の大きく丈夫そうな机があり、カーテンが広く開かれとても明るい。
そして机の前でドアに向かい畏まって跪く老年の女性がいた。
女性はエルシィと同じ様な色合いのシックな服装で、フワフワとした白髪を後ろで一つにまとめてある。
「エルシィ様、お元気そうで何よりでございます」
顔を伏せたまま女性が挨拶をはじめるが、丈二へと代わったエルシィからすれば初お目見えだ。
どうすべきかとキャリナの顔をそっと伺い見る。
キャリナもそれに気づいて小さく頷くいて何かを促すように視線を女性の方へと向けた。
無難に挨拶しろってことかな?
エルシィはそう解釈し、スカートを左右から軽くつまんで小さくお辞儀をする。
「ご無沙汰しております。……先生もお元気そうで何よりです」
ただ、挨拶を始めてから「あらかじめ名前訊いておけばよかった!」と自らの失敗に冷や汗をかいた。
少々不自然だったのだろう。
先生は静かに面を上げて首を傾げる。
小さな老眼鏡を鼻にかけた、穏やかそうな人だ。
ただ、しばし不思議そうに首を傾げていたが、特に追及はせずに立ち上がりエルシィへ席に着くよう勧めた。
素直に従って席へ着くと、先生はエルシィの席の右に立ち、キャリナは左斜め後ろに控える。
「クレタ先生。前回から少し間が空いております。今日は復習から始めてはいかがでしょう」
キャリナが思案顔でそう提案する。
クレタと呼ばれた先生も、しばし考えて小さな溜息を吐いた。
「そうですね。それがいいかもしれません。初めからおさらいしましょう」
そんなクレタ先生の言葉に、エルシィはホッとして同意を示すように頷いた。
病弱だったエルシィの事なので、お勉強は休み休みであまり進んでいないのかもしれない。
まぁ、この世界の教育レベルがどんなものか解らないので、それはそれで好都合だ。
エルシィはそう考えてお勉強モードに気分を切り替えた。
さてこの世界の紙は羊皮紙か、植物紙か。
と身構えつつ机を見ると、そこには小さな黒板のような物が乗っていた。
サイズとしては事務所でよく使われる上質紙くらいで、触ってみると平らながら表面はザラザラしている。
ひんやりとしたその触感は、材質が石であることを物語っていた。
黒い石を平らに削り、板状にして木枠を付けた代物だ。
見ればその黒石板の横には白石筆と手触りが固いスポンジの様な物が置いてあるので、これで書いたり消したりするのだろう。
最初の授業は算術だそうだ。つまり算数である。
クレタ先生が机の上にあるのとは別の黒石板を差し出してくる。
「ではこの問題を上から解いてみましょう。解らない問題は抜かしても構いません」
見れば、差し出された黒石板には、問題らしき文字列がいくつも書かれている。
あ、と声を出しそうになり、急いで口元を抑えた。
当然、そこに書かれた文字は日本語ではないし、数字はアラビア数字ではなかった。
ただ「まずい」と思ったのは、ほんの短い時間だ。
問題の書かれた黒石板をしばし眺めていると、不思議と数字と文字が頭に入って理解できるのだ。
そうか、この身体の持ち主は、一通りこのあたりの勉強をしているのだから、脳がある程度は憶えているのか。
そういや喋っているのも日本語じゃなかった。
と、気が付いた。
実はエルシィ自身は日本語で話しているつもりなのだが、これがどういう訳か相手にも通じるし、相手の話も理解できる。
これは女神さまの思し召しなのか、何か不思議な翻訳機能が働いているようなのだ。
これを仮に「女神翻訳」と呼ぶことにする。
それにしも、文字の記憶はあるのに人物や生活に関する記憶が無いというのは、都合が良いのか悪いのか。
エルシィは少しだけ憮然とした表情で肩をすくめた。