115兄弟の確執
お茶の準備を整えて食堂へ戻って来たライネリオを囲んで、彼がこんな場所にいる経緯を聞く会となった。
「囲む」というのがフレヤやアベルによっていささか物騒な方向であることは否めないが、エルシィとライネリオの間にはおおよそ和やかな雰囲気が流れていた。
先のハイラス伯夫人は隣国から迎えたいわゆる政略結婚ではあったが、夫婦仲は良好だった。
どれくらい良好だったかと言えば、継子がヴァイセル一子しか生まれず、家臣たちが「側室を持つよう」勧めても、最期までその忠言に従わなかったくらいである。
そんなハイラス伯夫妻の間に二子、ライネリオが生まれたのは、一子ヴァイセルが十代の終わりに差し掛かった頃だった。
思春期もそろそろ終わろうという頃であったヴァイセルは、年の離れた弟をたいそう可愛がった。
多くの生物は本能的に赤ん坊を可愛いと感じる。
などという説があるが、ヴァイセルはそんな話を信じないくらいには他人の赤ん坊には冷たかった。
だが、肉親は別格だったのだろう。
この賢い弟はまさに目にいれてもいたくない、そんな存在だった。
その賢さが疎ましくなったのは、ライネリオが十歳を過ぎた頃だろうか。
特にライネリオが小賢しく立ち回ったとか、嫌味を言うようになったとか、そういう出来事があったわけではない。
ライネリオは幼少時と変わらず素直で、そして兄を兄として慕い立ててくれる。
そんな弟だった。
だが、それゆえ、出来が悪いという自覚のあったヴァイセルには、次第に恐ろしいものに見えて来た。
何が恐ろしかったか。
家臣たちが弟を立てて自分を排除し、次期ハイラス伯爵にまつり上げることがだ。
つまり何が悪いかと言えば、兄より優れた弟という存在自体が悪かったのだ。
こう思い立ってしまったヴァイセルが、ライネリオをどう排除しようかと思いを巡らせるようになるのは当然の帰結だったのだろう。
賢いライネリオは悲しげな瞳で苦い笑いを浮かべ、この愚かな兄のやりようを黙って受け入れるのだった。
賢いゆえに、兄の苦悩が理解できてしまったのだ。
これが幼少よりいがみ合っていた兄弟であれば、ライネリオもまたヴァイセル排除に動いたかもしれない。
だが、小さなころはとても可愛がってくれたヴァイセルだったので、思春期の多感な時期でもあったライネリオは「自分が降ることで兄の平静が保たれるなら」と、一種の自己陶酔じみた自己犠牲精神を抱いたのだった。
こうして対立することとなった兄弟だったが、それほどひどい権力闘争にはならなかった。
ヴァイセルは小心者ではあったが、悪人という訳でもなかったからだ。
十代半ばに近づいたライネリオは早い元服を果たし、ヴァイセルから様々な任を言い渡された。
それはおおよそハイラス伯爵の家臣が失敗するような任務であった。
難しい仕事を任せ、失敗したならそれを理由に評価を貶めてやろう、という魂胆だった。
だが、ライネリオはことごとくその任を達成していった。
ライネリオの評価はどんどん上がった。
ヴァイセルはいよいよ頭に血が上った。
不幸だったのは、ハイラス伯からすれば「信頼できる弟を重用する兄」に見えてしまったことだろう。
そう見えたからこそ、ハイラス伯は微笑ましい気持ちでそれを止めることがなかったのだ。
そして誰もが見捨てていた貧民街の治安問題を任される。
ここに至り、ハイラス伯も「いくら何でもおかしいのでは?」と思うようになる。
が、時すでに遅く、かの身体は老いから来る様々な病に侵されつつあった。
家族に甘いハイラス伯ですら思い至ったのだから、多くの閣僚も気づいていた。
だが、保身のために誰も声を上げなかった。
そもそも長子継承は当たり前の常識で、それが乱すのは国の秩序を乱すも同然だと理解していたからだ。
つまり、「弟にとって代わられるかも」という考えは、ヴァイセルの妄想だったということだ。
ただこの妄想による兄の恐怖を理解していたライネリオはその命令を粛々と受領し、そして真面目で有能であるがゆえに、その任を粛々と全うした。
それからしばらくして父ハイラス伯は亡くなり、兄ヴァイセルが伯爵の名跡を継ぎ、ジズ公国への侵攻という愚策を執行してしまう。
逆撃に合い、ハイラス伯国がジズ公国にその支配権を譲ったのは記憶に新しい事件である。
ライネリオにより貧民街の治安改善という仕事はとっくの昔に完了していたのだが、あまりにショッキングな事件の連続で誰も注目していなかった。
これが彼にとって幸だったか不幸だったかは判らない。
だが、こうした一連の流れによって、ライネリオと出会ったエルシィは、確実に幸運だったと言えるだろう。
「なるほど、いろいろ苦労したのですねぇ」
「いえいえ、それほどでもありません」
ライネリオがこんな場所でボスをやっている大まかな経緯を聞いたエルシィがしみじみと言い、当のライネリオは大したことがないと言った態で畏まった。
エルシィと共に話を聞いていた側仕え衆も唖然とした顔だ。
特に貧民街がどういうものか知っているフレヤなどは、どう反応して良いか判らないという複雑な表情である。
エルシィはそんな彼女らの表情からも、ライネリオの仕事を偉業と認めて大きく頷いた。
そして供されたお茶をゆっくりと飲み干し、カップを静かにおいてから、もったいぶる様にテーブルの上に両肘をつく。
「ライネリオさん、あなたをスカウトしたいのですけど、おいくら用意すればいいですか?」
側仕え衆はこのエルシィの言葉に目を見開いたが、ライネリオは全く動じていなかった。
この展開も予想していたのかもしれない。
ライネリオは今まで座っていた椅子から降り、恭しく頭を垂れて跪く。
「捕えられ処刑されても文句の言えない出自でございますゆえ、この身を好きにお使いください」
まぁ、彼を処刑などしたら貧民街の者たちが黙っちゃいないだろう。
そういうことを織り込んだ発言なのかもしれない。
ともかくエルシィはこの日、とても有能な内政官を仲間に加えた。
次回は来週の火曜に更新します




