夏の終わり、ゆかり姉ちゃんは消えた
夏の終わり、ゆかり姉ちゃんは消えた。猛暑の夏において、例外的に冷たい朝だった。
あれはゆかり姉ちゃんが先生の部屋へ入ってゆくところを見た翌朝だったのか、それともずっとあとだったのか。僕の記憶はあいまいで、もやのかかったようにぼんやりとしている。
僕が肌寒さに目を覚ますと、昨晩までの粘りつくような暑さはどこかへ消えていた。僕は窓の外に、夜明け前の最も白い時間を発見する。
身を起こして、早朝の静寂に紛れて人々の気配を感じ取る。
ひそやかに、しかし緊張を孕みながら、大勢の人間が動き回っている独特の気配だ。
「……?」
ふすまに這い寄り、それをするすると開く。ちょうど部屋の目の前を早足で通り過ぎようとする祖母と、ばちり、と目があった。
祖母は僕におはようの言葉もなく、早口に問いかける。
「夜介、ゆかりちゃん見とらんか?」
僕はただ首を振る。
日常が不協和音を響かせながらレールを外れてゆく空気。それを嗅ぎ取り、僕の小さな心臓はどくどくとその速度を上げる。
どこからだろうか。その夏は、どこから僕たちの日常を外れてしまったのだろうか。
開いた襖をぎゅっと掴み、紙のたわみを指先で感じながら祖母の言葉を待った。
「昨日の夜から姿見えんようなって、お母さんたちも探っしょる」
「……部屋じゃないの?」
「部屋もなんも。どこっちゃおらん」
祖母は特にゆかり姉ちゃんをかわいがっていた。
焦りを隠そうともしない悲壮な表情に、僕は逆に冷静になってゆく。僕は何か祖母を元気付けるようなことを言ったのだと思う。ありがとうね、と弱々しい笑顔を向けて、また廊下の向こうへと早足で歩いて行った。
(ゆかり姉ちゃんが……いなくなった?)
ひと晩のうちにすべてが終わり、後戻りのできない僕の喪失が始まる。
そしてその朝、忽然と消えたのは六郷ゆかりただ一人ではなかった。六郷家に滞在していた「先生」たちも、彼らの「研究室」に置かれていたごちゃごちゃとした荷物も何もかも――その痕跡もろとも消え去った。
まるで初めからそんな人間など存在していなかったかのように。
◆◆◆◆◆
結局、いくら待ってもどこを探しても、ゆかり姉ちゃんは帰ってこなかった。先生たちの行方も、何一つ手がかりは残されていなかった。
彼女の失踪に、祖母だけでなく僕の母や叔父夫妻――つまり彼女の両親に当たる――は、当然ながら動揺していた。最悪の事態を想像し、それでも希望を抱いては、互いに励ましあう。その姿は僕の目に、まるで巣の中で身を寄せ合って親鳥の帰りを待つ雛の群れのように映った。
僕は――僕自身はといえば、涼しい空気が凛と張り詰めるあの朝以来、夢を見ているような、現実感のない日々を過ごしていた。夢というよりも、ゲームのイベントムービーの中、のように感じていたような気がする。ムービーが流れている間は、僕はキャラクターを操作することができない。
だから、コントローラが僕の手に戻るまでのあいだ、ぼうっとゆかり姉ちゃんのいない日常を過ごす。そんな僕を見て祖母は、かわいそうに、と僕を包容した。僕はかわいそうであるらしかった。
世界で最も動揺から遠い人間は、父である。いつもそうであったし、この時も例外ではなかった。
父の名は六郷宗弦。和装を好み、大柄で、表情は動かない。必要なこと以外は何も語らない。
それでも発するオーラ……纏う空気というべきか、父と相対する人間は、そこから何か強大なものを感じ取る。父は先祖から受け継いだ土地と金を元手に、僕の家の支配力を拡大していった。時代の変化に伴い、田舎の大地主としての役割がどんどん薄まっていくにも関わらず、祖父の代よりもむしろ六郷の力は増したという。
僕が知る父の姿は、屋敷の奥で書類に埋もれているか、応接間で来客と何かを話しているか、だいたいそのどちらかだ。父親としてどうだったかと問われると、正直良くわからない。
六郷の家に関わる物事は父の同意なしには動かない。
僕の家はそのように完成されていた。――終わっていたと言ってもいい。
ゆかり姉ちゃんの失踪に関しても、事情は同じである。最終決定権を持つのは父であり、それ以外にはあり得なかった。
母たちが色めきだって父に詰め寄り、警察へ捜索願を出すよう頼み込んでいる場面を目にしたことは一度は二度ではない。
「お父さん、お願いやけん。ゆかりちゃんがおらんようなってもう四日や。どこで危ない目にあっとるかわからん。無事でおってくれるならええ、何もわからんのが一番辛いんやわ」
「兄さん頼む、俺たちだけやとラチがあかん。警察に……」
僕の母と、ゆかり姉ちゃんの両親。彼らは目に見えて憔悴していた。父は、六郷の人間以外がゆかり姉ちゃんの失踪を知ることを許さなかったのである。
しかし父はただ一言、
「ならん」
と言い放って沈黙を貫き、決して首を縦に振ろうとはしなかった。
父が断固としてゆかり姉ちゃんの失踪をおおごとにしようとしなかった理由はわからない。そもそも、父のやることで僕の理解できたものは、思い返しても何一つなかった。
ゆかり姉ちゃんがいなくなったあと、無口な父が庭で僕に語ったあの言葉にしてもそうだ。もしかするとあれは、喪失の理由に肉薄していたのかも知れないと思う。
「夜介」
父が僕に呼びかけたその時、僕は、むしった草を意味もなく庭の池に投げ入れていたと思う。それを餌と勘違いした鯉がぱくぱくと水面で口を動かす光景を、何分間眺めていたのかはよく覚えていない。
僕は振り返り、いつの間にか音もなく僕の背後にそびえ立っている、山のような父の身体を認める。
父親が僕の名を直接呼んだのは果たして何年ぶりか、思い出すことはできなかった。
「あれは死んだ」
呼びかけに答えようとしない僕を意にも介さず、父はそう告げた。あたりは夕暮れ時で、傾いた太陽がその赤色を池の水に反射させ、僕の目を痛いほどに打つ。父の顔を半目で見上げることしか出来なかったのは、決して恐怖からではないのだ。
あれは、死んだ。ゆかり姉ちゃんが、皆が必死で探しているゆかり姉ちゃんが、死んでいる。この父親は、僕にそう告げたのか?
脳が父の発言の文脈と意味を解釈しようと働く間に、父は次の言葉を続ける。父は、子供に対して子供に向けるような語り方をする人間ではなかった。
「諦めろ。六郷はそういうことがよう起こる。……夜介、お前も六郷の人間なら知っておかねばならん」
「六郷六郷って、なんや」
目を見開くことができなくて、父の口元を睨みつけながら、僕は反発を試みた。
「六の香を統べる役割を持つものが、六郷だ。私の代で完成させるつもりであの男どもを呼んだが、夜介。どうやら私たちは賭けに負けたらしい」
いったい僕は――何を語られようとしているのか。
父の一人称が「私」であることを、僕はこのとき初めて意識したような気がする。それほどまでに、父は長く何かを語ることが稀であった。負けたと語る父の表情にしても、その言葉に反して少しも悔しさや怒りといった感情を表出していない。
ただ僕の驚きは、父の口にした別の単語に向けられていた。
「あの男……って、先生?母屋の和室でずっと……研究してた」
「そう、研究だ」
父は、さらに僕に一歩近付く。まるで父の大きな身体が意志を持って小さな僕を統合し、完全になろうと蠢いているように感じた。
子供の首の可動域いっぱいに見上げる父の顔は、夕日に遮られ、視認することができない。
「離れの連中は、このために残しておいた。香を扱えなくとも、研究の材料としては使い出がある」
「おと……父さん、コウ、って何」
「特に、ゆかりは優秀だった。研究は順調と聞いていたが、夜介、覚えておけ。最後にお前や私のような人間に牙を剥くのは、他ならぬ人間の感情だ」
明確な繋がりを意識したわけではないが、僕の脳裏には、月明かりに照らされて先生の「研究室」に足を踏み入れるゆかり姉ちゃんの姿が思い出された。
このゲームのムービーはやけに長いなと、夕日に溶ける頭でうっすらと考えている。