エピローグ
百合崎花が僕たちの前から姿を消し、世界の【神】となってから一年が過ぎた。
花さんがすべての【フレーバー】を解放して、世界の殻と同化したあのとき。【ボトム】の黒は消滅した。各地で地面の底から湧き上がり、あらゆる存在を飲み込もうとしていた漆黒の【無】は――兆候も契機も跡形もなく、チャンネルを切り替える程度のノイズすらなく。忽然と人々の前から消え去ったのだった。
その瞬間を僕がこの目で見たわけではない。すべて、後から報道で知ったことだ。
報道。
六郷の【完結】、いや、完結の未遂がもたらした悲劇は、原因不明の災害として人々の記憶にこびりついていた。
集団幻覚と主張するもの。
宇宙からの侵略と壮語するもの。
世界の終わりが近いと煽動するもの。
様々な意見がメディアを賑わせていた。
だが少なくとも、それがそもそもなかったことだと、幻覚のような出来事だと、そんな風に結論付けられることはないだろう。無数の記録がネット上に残っている。人々もしっかりとその惨劇を記憶している。【無】の底に失われたものがあることは、厳然たる事実であった。
花さんが「世界の裏側」になったことで、並行世界に入り込む技術――ATPI は、失われた。
プロトコルが変わってしまったからだ。
かつて ATPI は、僕がゆかり姉ちゃんという存在に対して向けていた、極々個人的な感情を基盤として確立したものだった。並行世界に遍く存在する人格はもはや「六郷ゆかり」ではなく、並行世界は新たな神――「百合崎花」を迎えた。そしてプロトコルを模倣できる天才も、汎用化できる天才も、この世界からいなくなってしまった。
人類はいま原因不明の事態に怯え、怖れている。
だが世界は、確かに回復の途上にある。
まだもう少し、人類には時間がある。
だから僕は心配していない。
何度も何度も繰り返し、ひとは未知を克服してきたのだから。
◆◆◆◆◆
太陽が差し込む並木道を一人の少女が駆けている。高校の制服に身を包み、鞄を揺らしながら、軽く息を切らして走っている。黒すぎるその髪は、朝日を浴びて深い紫色に輝いているように見えた。
彼女は、前を歩くもうひとりの少女に呼びかける。
「小春ちゃん!」
呼ばれた少女――百合崎小春は振り返る。彼女は、もう姉のセーラー服を着ていない。彼女の通う高校が指定する、ありふれた制服だ。それは声をかけた方の少女と同じ制服だが、学年を示すネクタイの色だけが違っていた。
小春は柔らかな笑みを浮かべる。この一年でずいぶんと穏やかになったその表情は、ふとした時に姉の面影を映す。
「みのりちゃん。おはよ」
小春は、駆けてきた少女にそう応えた。
みのり――かつてメルトネンシスと呼ばれていた少女は、両親から与えられた「比良坂みのり」の名前で現在を生きている。
十五歳になるみのりは、小春と同じ高校に入学した。
もともとの地頭がいいのか、それとも母を通じて世界のすべてを見聞きしてきた彼女にとって、学業程度は児戯に等しいのか。僕の心配をよそに、みのりはみるみる知識を吸収していった。特に語学が得意らしく、範囲によっては、年上で受験生の小春に勉強を教えるまでになっている。
小春はみのりの後ろを歩く僕に気が付くと、いたずらっぽく「べっ」と舌を出す。
「なんで夜介もいんのよ」
「しょうがないだろ。駅に向かうんだから」
みのりの親族はそのほとんどが絶えていたため、血縁にあたる僕が彼女の面倒を見ることになった。
先生、すなわち比良坂聡の庇護のもと、長年【ハイゼンベルク】施設の水槽で生きてきた彼女は、ほとんど一般常識と呼べるものを持っていなかった。だから彼女の保護者として暮らす僕の日々は……控え目に言って、大変だった。怒涛、と言うべきかも知れない。
僕にとってみのりは、因縁の相手である先生と、かつての想い人であるゆかり姉ちゃんの実子にあたる。そういった関係性に、思うところがなかったでもない。ただ、目前の現実に対処しようと必死にもがいているうちに、そんなわだかまりはどこかへ霧散していた。
小春は傍らのみのりの制服を掴むと、くいくい、と引っ張った。
「ね、先いこ、先。あたし日直なの」と小春。
「うん。……夜介さん、先行くね」みのりが僕を振り返り、小さく手を振る。
「ん……。いってらっしゃい」と僕も振り返す。
みのりの成長過程を――社会適合の道のりを最初から見守ってきた僕は、こうして立派に日常生活を送るようになった彼女を眺めるたびに、どこか感慨深い想いを抱いてしまう。未婚にして父性にでも目覚めてしまったかと、時折苦々しく感じることもある。
僕の前を歩いていく二人の会話が、遠く聴こえてくる。
「あ、夜炊き込みご飯でいい?」
「やったあ、また来てくれるの?小春ちゃんの炊き込みご飯、好き」
二人が未来に歩いてゆく姿を、僕は満足げに眺める。みのりは、そのいっぱいの好奇心で、これから世界を知っていくだろう。
ひとつひとつ積み上げていくしかない。持たざる自分自身を自覚したのなら、いまからでも、手の中にあるものを守っていくしかない。
僕はもう、誰もいない世界を神に願うことはない。
それでも僕は、ふいに、静かな空間に迷い込んでいる僕自身を発見する。
さっきまで居たはずの人々はすっと消え去り、かつて神に願った【誰もいない世界】が、ふと眼前に広がる時がある。そこはあの頃の、ゆかり姉ちゃんが見ていた白黒の風景ではない。道端に咲く花が鮮やかな色を放つ、ただ静かで孤独な世界。だから僕はそこが現実なのか、それとも誰かの祈りが創造した世界の裏側なのか、区別することができない。
新たな神となったあの人に、どんな言葉で話しかければいいのだろうか。
僕はまだ、それを見つけられていない。
せめて新しい神が僕たちを、笑顔で眺めてくれていることを願っている。




