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比良坂聡の人生には、クソほどの価値もない

俺――すなわち比良坂(ひらさか)(さとし)の人生には、クソほどの価値もない。


俺は研究者の家系に生まれた。父親は数学者、母親は脳神経科学者で、家は馬鹿馬鹿しくなるほど裕福だった。研究者というものは、元来金の儲かる類の生業ではない。つまりは、金のある家同士が道楽でつがいを作り、つがいども自身も道楽で研究に没頭することが許されていたというのが実情だ。俺に兄弟姉妹はいない。俺という子種をこしらえた事自体、連中の道楽だったのだろう。造れるから興味本位で生殖(つく)った。それだけだ。


両親が俺に与えたものは非常に極端であったと言える。およそ家族の交流と呼べるものはなく、俺は成人するまで両親の顔を数えるほどしか見ていない。そもそも、あいつらが俺を家族と認識していたかどうかすらも怪しい。数学者の父親は、抽象代数学の特定理論を長年考え続けていた。自宅にはわけのわからない記号で満たされた紙や書籍が散らばり、子供の俺はそれを落書き帳として利用した。脳神経科学者の母親は、記憶を司る脳部位の発生過程に多大なる興味を抱いていた。おそらく母親が魚を三枚におろした数よりも、ネズミの頭蓋をかち割った数の方が桁が二つは多いだろう。


一方であいつらが俺に与えた環境と機会と資産、そして遺伝子は最高と呼んでいいものだった。知という知、識という識の贅を尽くした環境にどっぷりと頭の先まで浸かることが許された。というよりも、それ以外にやることがなかった。俺は大学まで学校に通わず、高等教育未満に相当する知識は各科目の専任の家庭教師によって与えられた。両親の才を受け継いだ俺の頭脳は、詰め込めば詰め込むだけ知識と思考を先鋭化させていった。俺はあいつらの企んだ通り、そして仕込んだ通りにこの世界を研究する道を選んだ。それ以外の道は俺の視界に入ることがないよう丁寧に取り除かれており、俺はただ、舗装され小石ひとつない研究者としての道を歩んでいくしかなかった。


そのような育てられ方をした俺は、一般的に幼少期から思春期にかけて形成されるという、情動の制御や真っ当な自己認識、人付き合いの機微というものを習得する機会がなかったのだろう。


だからこそ俺は進学した大学で、知識をひたすら胃袋に詰め込む以外の人生の過ごし方が存在する事を知り、ひとしきりの驚愕を乗り越えたあと、そこに存在する人間たちを見回して――ことごとく、奇異で劣悪で醜怪であると断じた。俺の欠落が社会の人間どもと付き合う上で非常な困難をもたらしたことに疑いはないが、それでも俺は「普通」の連中に死んでも迎合しないことを決めた。だから俺は周囲に存在する人間たちを憎悪をもって扱ったし、そいつらも等しく俺を嫌悪し、忌避し、蔑視した。



――六郷(ろくごう)隼人(はやと)、ただひとりを除いて。



◆◆◆◆◆



「比良坂、またひとりか? 邪魔するぞ」

「――クソが。邪魔な自覚があるなら消えろ」


大学の学食。俺の拒絶を意にも介さず、目の前の席にトレイを置いて座ろうとする男を睨みつけた。馬鹿みたいに金色に染めた短髪と派手なシャツがその存在を強く主張するが、ふにゃりと気が抜けたような笑顔が印象を中和して、掴みどころのない空気を漂わせている。


「そう言うなって。二限目の物理で計算課題出たろ? お前なら」

「やるだけだろ。授業中に終わってる」

「さすが」


俺は軽く舌打ちして食事に戻る。しかし、それで会話が終わりではなかったらしい。


「やりかた教えてくれ」

「……」


そいつは黒髪が現れ始めているつむじが目に入るほどに、しっかりとその金色の頭を下げていた。

口の中のものを咀嚼している俺は、目を逸らして心の中だけでため息をつく。


その男は名を六郷隼人(はやと)と言い、俺と同級の大学生、ということになる。初め、俺は無邪気に話しかけてくるそいつを無視した。完膚なきまでに無視をして悪態をつき、全身全霊を以て近付くなというシグナルを発信した。俺は誰に対してもそのように振舞っていたから特筆すべきことではない。そうして他人は俺から離れて行くのが常だった。


俺にとってのイレギュラーは、隼人のクソ図太い神経にあった。


俺が何度切り捨てても、隼人は何が面白いのか阿呆な犬のように愛想を振りまいて俺に付きまとい続けた。俺は次第にそいつのことを突き放すのが面倒になり、適当にあしらっていれば無害であることに気が付いて以降、苛立ちながらもその存在を許容するようになった。こうして半ば押し切られるように奇妙な友人関係もどきを形成するに至る。


「……十五分だけ付き合ってやる」

「サンキュー」


にっ、と音がしそうなほど顔を緩めて隼人は笑った。

それは当時の俺にとって、人生で最も接近を許した他人であった。

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