わたしたちは似ている
「――あなたが悪いのよ、メルト」
ユリの声色はどこまでも優しく、そこからは、何者も傷付けない柔らかさを感じ取ることが出来る。その優艷な言葉に締め付けられるような心持ちで、メルトの頬を伝った涙は静かに水槽の水へと一体化する。
「『やめて……。ごめん、なさい……』」
「大丈夫」
だいじょうぶ。何が大丈夫だというのだろうか。
そう問いかけるように、メルトは潤んだ目でユリの顔を見上げる。
ユリは優しく微笑んでいる。
「あなたがもう間違えないように、わたしが付いててあげる」
地面に倒れたままの、アザレアの髪が揺れる。セーラー服の少女はわずかに身体を強張らせたように見えた。
「『……それは、どう……?』」
「メルトには、わたしの眼になって欲しいの」
ユリはウインクするように片目を閉じて、そのまぶたを人差し指でそっと押さえる。
「『め?』」
「そう。わたしがいくら思考を回しても、どれだけシミュレーションを重ねても、どんな強力な【フレーバー】を使役しても――結局わたしが、見たこと、聞いたこと、体験したことを材料にするしかないの」
「『……』」
「情報入力。それがわたしの限界、ボトルネックだから――」
――メルトの絶対的な神の眼を得ることで、天才はその限界を突破する。
そしてもう一方のメルトネンシス――【ハイゼンベルク】の監視システムとして水槽の中で過ごしながらも、システムになりきれない少女。彼女にとっても、ユリと一緒に生きることにはきちんと意味がある。
「あなたもわたしといれば、もう間違えなくてすむ」
ぜんぶ台無しにならずにすむ。
天才と呼ばれる彼女は迷わない。迷いは、知性が最適解を決められないことで発生する思考のバグだ。ファジーな監視システムは天才の頭脳というプロセッサを得ることで、真なる完成を見る。
ユリは思う。
わたしたちは似ている。卓越の上に生きる天才であり、あるいはシステムでありながらも、その先に手を伸ばしたい人間。限界を知り、それを越えた先を追い求める存在であること。その二人が補完し合って生きることができれば、
――きっと、その方がおもしろいから。
これはユリからして見れば、お互いに損するところのない、成立以外の結果が考えられない取引である。だから――メルトの返答によって、ユリは一瞬その呼吸を停止させた。
「『……いやだ。間違う……ほうがいい』」
「……何を言ってるの? メルト」
ユリはまぶたの上に乗せていた人差し指を口元まで、つつ、とおろして……小首をかしげる。
メルトは疑問の視線から逃れるように、彼女自身を守るように、白い両腕でその身を抱きしめる。それはどこか、アザレアがユリから愛を語られたあとに見せた姿勢と似ていた。
地に横たわるアザレアはそれを見ているのか、見ていないのか、見たくないのか――動かない。あるいは動けないのか、もしかすると動かないことを選択しているのかも知れない。僕の眼には、背を向けたアザレアがユリとメルトの会話を聞いていることはほとんど確実であるように感じられた。彼女が想うのは、姉に対する畏敬か、メルトに対する理解か、彼女自身の……哀愁か。
コンクリートの匂いがする。
「『ユリは、間違わない方がいいの?』」
「そうじゃない? だって間違ったら、つらいことがいっぱいあるよ。今より少しでも完全を目指すのは、人間として……やるべきことなの」
「『そうだけど……でも、ユリは……』」
「……メルトちゃん。おいで」
ユリはその手を――割れた水槽の中に座るメルトに向けて伸ばす。見た目には、先程メルトの頬に触れた時の、優しさを伴う動きと寸分違わない。それでもメルトは、水槽の中の少女は、身体を強張らせて明確な拒絶を示した。
「……い、やだっ……!」
メルトはユリの手から逃れるように、水槽から落ちる。まるでイヤフォンのコードが外されたように、そこで世界から直接響くメルトの声が消える。ただの少女の悲鳴へと落ちる。
長い時を水槽の中に浮かび過ごしてきたメルトにとって、その両脚で支えるには、地球の重力は重すぎた。悲痛な声を上げながら、少女は床へと倒れ込み、転がる。
セーラー服の少女、アザレアに重なるように。アザレアは小さく震える手を動かして、メルトの身体に触れる。
ユリが身をかがめて、メルトへと手を伸ばそうとした時――黒い棺が、床に倒れるメルトとアザレアの二人を覆った。
「……っ!?」
アザレアが【ダウン】を発動させて箱状の黒い盾を生成、メルトと彼女自身を包み込み――二人を棺桶の中に隔離したのである。
ユリは目を見開いて、黒い壁に覆われた先の妹へと視線を向ける。
元々アザレアは、わずかでも身体を動かせること自体が不自然なほど衰弱しているはずだ。アザレアにとって一番安全な行動は間違いなく、死んだふりを続けて脅威が去るのを待つことである。それほどまでに圧倒的な力の差がある。絶望的な格の違いがある。そしてユリは、愛を語りながらも実の妹を手にかけることを厭わない。小春を愛しながら小春を殺すことは、ユリにとっては矛盾なく成立する行動であった。
他ならぬアザレア自身が、それらすべてを骨の髄まで理解しているはずだ。……にもかかわらず彼女は、ユリの足首を掴んだ時も、床の倒壊から身を守った時も、そしてメルトを【ダウン】の黒壁の中に匿おうと決断したときも――決して、諦めていない。
それは僕から見て、少女の細い身体に宿っていることが信じられない驚異的な意志力であった。
「……こーはーるー。お姉ちゃんの邪魔しないで」
ユリは妹の悪戯を叱るような口調で口を尖らせる。再び右手をピストルの形にすると、二人を包む黒い棺桶に、その絶望的なまでの輝きを突き付けた。
だめだ。
だから、それはだめだ。妹に、幼い少女に向けていいようなものではない。
黒い棺桶の向こうに守られているはずの、ゆかり姉ちゃんと瓜二つの顔を持つ少女。メルトの見せる表情は、僕の知る「ゆかり姉ちゃん」のそれよりもずっと幼い。ずっと素直で、弱い。僕が【メルト】の正体を知るよりも前に、これ以上の破壊を防ぐことが、いまの僕にできる最善のことであるように思われた。
ユリの光り輝く「ピストル」は、審判を下す裁きの雷のようにも、機械仕掛けの時計のようにも、彼女という天才の生き方そのもののようにも見えた。
僕はその光に向けて手を伸ばす。次はもっとうまくやる。僕の【ボトム】で、跡形も残さずに彼女の破壊を無くしてみせる。
――と、ユリは僕を横目で見てくすりと笑った。
――いけない。
気が付いた時には遅すぎた。
ユリの右手に宿った光は、アザレアたちに向けて発射されることはなかった。光は彼女の肩を小ネズミのようにしゅるりと走り渡り、左手へ。
左手の人差し指は、僕の身体へと向けられている。
「――ばん、っと」
軽い調子で口ずさみ、ユリは左手を指揮者のようについと振った。
瞬間、僕の身体は、ユリたちに向かう姿勢のまま前のめりに倒れ込む。
(……何だ?何が――)
床に這いつくばる僕の視界に、切断された人間の脚が映る。二本。ユリの指先から振るわれた光の槍は、僕の両脚を太腿の位置で切り落としたのだった。
――痛みと呼ぶことすら躊躇われる衝撃が、一瞬遅れて僕の全神経を蹂躙する。




