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その女はメルトと呼ばれていた

その女はメルトと呼ばれていた。


年の頃は若く、未だ少女と呼んで差し支えない。作り物めいた美しさを構成する、陶器のように白い肌は、陽の当たらない場所で生き続けてきた彼女の生涯を思わせる。


メルトは目を閉じている。


簡素なブラウスだけを身に纏い、その細身に似合わぬ重厚な装置を頭部と四肢に取り付けられた姿で、彼女はひとりそこに ―― 水に浮かんでいる。浅く水で満たされた浴槽のような容れ物は、アイソレーション・タンクと呼ばれる装置の一種である。


深すぎて黒く見える紫の髪は、彼女の身体を彩るように、あるいは守るように、水の上に長く広がっている。


タンクを含めておよそ四畳半ほどの、電子機器とケーブルで満たされた部屋。それが彼女の寝床であり、故郷であり、牢獄であり、そして戦場であった。


彼女の感覚は、いまここにいる彼女の身体とは別の世界へと接続されていた。既に眠りについていた彼女はその夜、ささやかな世界への侵襲を検知する。


「…」


メルトは薄く目を開ける。髪の色と同じく濃い紫に染まるその瞳は、どこか()()として焦点が合っていないように見える。


それはたったいま眠りから覚めたばかりだから...と、いうわけではない。彼女は眼の前の閉塞された空間とは別の場所へと、その意識を集中させていた。


(座標、17a16b55b1ba4038, ca144a93f0a17c96。侵襲は、きわめて軽量...)



◆◆◆◆◆



()()()()への干渉を知ることができる。その類い希なる能力ゆえに、彼女はこうして機械に繋ぎ止められ、日夜を問わず、組織のセンサーとして機能を果たし続けている。彼女がその身体を浮かべるタンクの役割は、現実世界における五感を極限まで排除することで、センサーの感度を最大化することであった。


干渉検知。それがどのようにして為されているのか、組織はおろか彼女自身も理解していない。それでも、他の誰にも不可能なことが可能であるという事実自体が、既に唯一無二の価値である。


だからこそメルトの能力は、既に彼女たちの「()」— 連合側の知るところとなっていた。


光、音、匂い、振動、触感、化学物質。細分すれば無数にあれど、外界を何らかの方法で認識する能力は、競争の存在する環境下において欠くことのできない意味を持つ。



いまあるこの世界とは別に、並行して異なる世界が存在する。メルトは()()()|》《・》|》《・》()()()()()()()()()()()に認識の糸を伸ばすことができる。


その範囲は非常に広大、かつ極めて精密である。ともすれば彼女は潜在的に、並行世界で起こるすべての出来事を知ることができるのかも知れない。能力の正確な測定を困難たらしめているものは、彼女の受け取る情報の不確定さであった。


何者かが並行世界に対して破壊・変更を行った瞬間、彼女はまるで肩を叩かれたように、後ろから呼びかけられたように、あるいは懐かしい匂いを嗅いだように、それを検知する。感じ方は毎回異なっていた。


脳という機構はあまりに柔軟であるため、ときに、五感を相互に混じり合うものとして感じる人がいる。季節の暖かさを音で聞く、色の匂いに眉をひそめる、数字を昔からの友達のように感じる... そういった感覚を、共感覚と呼ぶ。


メルトの能力はそれに近い機構であると仮説が立てられているが、先述の通り、正確な理論の解明には至っていない。


重要なのは、それが()()()()ということである。


一方的、かつ絶対的な神の眼を持つメルトがいなければ、規模で劣る彼女らの組織は、連合の攻撃を生き(なが)らえることなど不可能であっただろう。彼女の検知の速度と精度が自分たちの命運を握っているものと、組織の誰もが考えていた。


彼女自身もそれを頭では理解していたが、ずっと昔から小さな部屋で水槽に浮かんで生きてきた彼女にとって、それはどこか遠い世界の、物語に語られる命のやり取りのように感じられる。



◆◆◆◆◆



干渉の場所と時刻を特定したメルトは、その意識を詳しい解析に向け始める。今日の干渉は、夕暮れ時にどこか遠くから香る焼き菓子の匂いのように感じられた。


(おなかへったな...)


メルトの能力を認識・警戒するがゆえに、連合からの攻撃はいつも、何の兆候もない唐突な破壊であった。


干渉者を特定し、危険度を分析して、敵に対する情報を可能な限り詳しく、それでいて可及的速やかに報告する。それは無意識のレベルまで染み付いたルーティンである。


しかし、今日の干渉は何かが違っていた。メルトの()()がかかったような瞳は、ぽたりと垂らされた疑念にかき混ぜられて、しだいに意志の光を取り戻す。


(...なに、これ?)


彼女の検知した干渉は非常に密やかで意味のないものであり、だからこそ彼女を困惑させた。


(花を摘んだだけ?)


その日、彼女のセンサーに引っかかったものは、並行世界で何者かが民家に植えられている花を摘んだ、というごく日常的なものであった。その花を、白黒の世界から出れば淡い紫に彩られているであろうその花の名前を、メルトは知っていた。


非日常の世界で行われる日常的な行為。


何かのカモフラージュなのか、相手側のミスか。それとも、緊迫したこの状況を知らない第三者の介入なのか。彼女は判断に窮した。


最後の可能性は考えられないように思われた。主たる根拠は、並行世界へのアクセスを可能にする、ある技術の寡占状態にある。その技術の利用は厳重に管理されており、メルトたちの組織と連合以外で、利用できるものはいないはずだ。実際に、これまで両者に属する人間以外が並行世界にアクセスした事例は確認されていない。



センサーたる彼女の脳波は、当然ながらそのすべてが監視の対象となる。


「...メルト、敵か?」


誰かの声がする。それが誰なのか彼女は知らない。


しかしそれは彼女にとって「検知」を除けば数少ない外界からの入力である。したがって、呼びかける声のトーンや大きさ、速さ、間の取り方、言葉選び…そうした小さな変化を楽しむほどであった。


換言すれば、センサーとして静かな世界の変化を待ち続けているメルトは、予測不可能性に飢えていた。カミオカンデに感情があれば、彼女に深く共感するであろう。そんな彼女にとって、まったく敵意の感じられない、意図もわからない小さな破壊行為は、砂漠で岩に滴る清水を見出したようなものであった。


脳波の乱れが検知できたとしても、乱れをもたらした原因を知るものはメルト本人のみ。唯一無二のセンサーを有しながらも、センサーデータは人間の意識と言葉を介して報告しなければならないという制約。


それは、メルト固有の異能というブラックボックスをコアとして据える、彼らの技術の限界でもあった。


「...ごめんなさい。夢を見てて」

「ああ、夢ばっかりはどうしようもないな」


メルトはその手に乗せたひと掬いの潤いを守るため、彼女の生涯で初めての嘘をついた。

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