高エネルギー物理第二実験棟
組織が拠点としている大学は、アザレアの姉が進学した、国内有数の総合大学であった。東京を始め各地に広大な敷地を持ち、自然科学から社会、芸術、教養、医学まで、潤沢な予算を拠り所として、あらゆる分野の学部を有している。
ごった煮のようなその環境において、組織はいくつかの建物を管理下に置いていた。組織の設立者であるヒラサカが、表向きは大学の教授(だったか、もっと下っ端だったか。忘れた)としてこの大学に属していることを活用したもので、一応は法的にきちんとした手続きを踏んでいるらしい。
あたしは『高エネルギー物理第二実験棟』と書かれた無骨な建物に足を踏み入れる。【組織】の持ち物のひとつだ。敷地内の隅に位置する立地も相まってほとんど近寄る人間もおらず、入り口をくぐった瞬間に、深夜の裏路地に迷い込んでしまったような孤独感が全身に滴り落ちてくる。
コンクリートが剥き出しの薄暗い室内が、高い天井に据え付けられた蛍光灯に照らされて冷え冷えとした肌を晒している。蛍光灯は切れかけているものも完全に寿命が尽きているものもあり、ろくに掃除されていない床も余計に寂れた雰囲気を助長していた。
あたしの後ろを歩く六郷夜介は、物珍しいのか、あたりに眼を配りながら声を響かせる。
「こんな建物があるのか……ずいぶん古そうに見えるけど」
「建物自体は戦前からあるとか。空襲の中、唯一無傷で残ってたって」
「都市伝説っぽいな……」
「うるさいな。どうせ水仙の受け売りよ」
重い扉を開け、非常階段から地下に降りる。地下一階、地下二階……さらに下へ。目的の階で階段から廊下に出て、そのまま歩き続ける。あえて、あたしは何も説明しない。夜介の気配に「どこまで進むのだろう」という不安が混じってきたあたりで優越感ゲージが溜まり、この沈黙プレイに満足する。
ちょっと楽しくなり、スカートの裾を指で何度か弾く。布は、冷えた空気をひらと舞った。
「フレーバーについてはどれくらい聞いてる?」
「そうだな……断片的に、くらいで。六種類あるとか」
「どう思った?」
「どうって」
「それ聞かされた時よ。へいこうせかいーとか、六種類の能力がーとか」
「まぁ、ゲームぽいとは思った」
「なにそれ」
あたしはその呑気な発想に笑う。そうこうしているうちに、目的地に辿り着いた。
コンクリート張りの年代を感じる屋内の中で、あたしたちは、どこからどう見ても後から取り付けられた近代的なゲートの前に立っていた。業務用エレベータの昇降口を一回り大きくしたような形である。
手に持ったカードキーでゲートを開くと、中には広大な空間が広がっていた。市民体育館ほどのサイズ感。ただし壁や床、天井はすべて灰色ののっぺりとした平面である。コンクリートのように見えるが、その実、あたしたちが【フレーバー】を使用してもちょっとやそっとでは外部に気付かれないような色々(詳しくは知らない)があるらしい。
初めて見た時、あたしはここを巨大な棺桶のようだと感じた。
「すご……」
「まぁ、何かトレーニング場みたいな」
「トレーニング?」
何となく間の抜けた応答に、あたしはまた不安になる。
この男はちゃんと状況をわかっているのだろうか?
「あんたのトレーニングよ。取り急ぎ、最低限フレーバーを使えるようになるまで」
「ああ、なるほど……ごめん、そんなに急とは思ってなくて。明日も仕事があるから、その」
改めてため息をつく。やっぱり、よくわかっていない。
「あんたねぇ……、今日、連合に襲われたんでしょ? 水仙に助けられなかったらどうなってたかわかる? 何が仕事ですか、馬鹿じゃないの」
「それは……」
「これからのあなたの人生、連合に狙われなかった日常には戻れないの。今後もずっとお爺ちゃんに守ってもらう? 仕事してる間、後ろにセバスチャンみたいに付いててもらって」
その図はちょっとおもしろいかも知れない。
想像してしまいそうになるが、頭を振ってそれをかき消す。
「わかったよ。ごめん。僕自身で身を守れるようにならないと、生活もままならないってことか」
若干ニュアンスが違っている気もするが、とりあえず今やるべきことは理解したようなので訂正しない。そもそも目的もわからずに、この男はどうしてここまで付いてきたのだろう? 何かを教えてもらって「お疲れ様」と帰るつもりだったのだろうか?
そういえば、こいつの知りたいことって何なんだろう。あたしが姉を連合から取り戻すためにここに居るように、こいつにも何か理由と目的があるのだろうか。
(……まぁ、いいか)
あたしは思い直すと、ポケットから銀色のブレスレット、ATPI をふたつ取り出して片方を投げて寄越す。夜介はとっさに体制を崩しながら受け取った。
「じゃあ、とりあえずやってみて。入るよ。並行世界に」
◆◆◆◆◆
あたしが並行世界に入ると、すぐに夜介も付いてきた。あたしが組織に入ってトレーニングを初めたばかりの頃、並行世界に入るまでに何週間もかかったものだが、そこにまったく躓くことなく難なく超えてくるのがすこし悔しい。
あたりは元々殺風景な灰色の壁なので、白黒の世界を移動してもあまり差がわからない。視覚の違和感を排除することがこのトレーニングルームの目的のひとつだと、水仙は語っていた。
「じゃあ、まず座学。フレーバーには六種類あると言ったけど、分類すると【アップ系】【ダウン系】がそれぞれ三世代ある感じね」
「三世代?」
「そ。ざっくり世代が高いほど高度・複雑・レアだと思って。アップ系は第一世代がその名の通り【アップ】、第二世代【チャーム】、第三世代【トップ】で、特性はそれぞれこんな感じ」
・アップ系 第一世代: 【アップ】 ... 強化
・アップ系 第二世代: 【チャーム】 ... 付与
・アップ系 第三世代: 【トップ】 ... 創造
「水仙とかは【アップ】ね。何かを物理的に強くする。あの爺さんはひたすら身体強化して殴るのが好きだし、性格的にも合ってる」
「ああ、確かに脳k……いや、何でも」
「脳筋? わかってるじゃん」
あまりに素直な感想で、つい笑ってしまう。むしろ、ちょっと接触しただけにも関わらず、その性格を察されてしまう水仙が単純バカというべきだろうか。見た目は理知的で物腰も柔らかなのに、紳士詐欺だとたまに思う。
「水仙の戦いを見たなら、白い光で身体強化してるの見たでしょ?」
「ああ、やってた。相手も同じ感じだったけど」
「そう。じゃあたぶん相手も【アップ】だったのかもね。で、第二世代の【チャーム】はあれを飛ばせるタイプ」
「飛ばす?」
「白い光を小さな弾にして飛ばしたり……ビーム? みたいにしたり。とにかく違うのは、身体から遠く離れた場所への攻撃に使えるってこと。水仙曰く、チャームは付与の性質を持つ……存在を内的に強めるんじゃなく、外的に作用を起こすことが出来る、みたいに解釈してるけど。連合に強い【チャーム】使いがいるって聞いたことある」
「なるほど……それは、飛ばさないことも?アップと同じように自分の身体に使う、とか」
「できるんじゃない? 基本的に系列内で世代が高いやつは、低い世代の上位互換だってさ。慣れとかもあるから絶対じゃないけど」
思ったよりもスラスラと会話が進むので、ちょっと感心する。
「最後【トップ】の創造、ってのは?」
「さぁ……あたしもよく知らない。第三世代はそもそもほとんど居るもんじゃないって聞くし」
「そっか。物質創造みたいなチート能力なのかも」
チート能力? 先程も「ゲームっぽい」という感想を漏らしていたように、そういう設定のゲームと割り切って理解しようとしているのかも知れない、と感じる。まぁいいか。
「じゃあ、次。ダウン系。第一世代はこれも系列名通りの【ダウン】、第二世代が【ストレンジ】、そんで第三世代【ボトム】ね」
・ダウン系 第一世代: 【ダウン】 ... 弱化
・ダウン系 第二世代: 【ストレンジ】 ... 奪取
・ダウン系 第三世代: 【ボトム】 ... 消失
「あたしの属性は【ダウン】だから、これは実際に見せられるよ」
アザレアは左手を伸ばし、手のひらを前方に向けて、彼女の能力を使用する。ヴン、という鈍い音を伴って展開されるその能力は、黒い板の形体を伴っていた。小柄なアザレアの身の丈よりも二回りほど大きい。
アップ系列が全体的に白いことと相反するように、ダウン系列は黒を基調としている。らしい。プラス、白、陽。vs、マイナス、黒、陰。
「弱化……とは言うけど、実際は大抵の攻撃は防げるから、盾として使うことが多いかな。あたしはだいたい仕事でも盾役」
「なるほど。ちなみに、アップで強化した物理攻撃をダウンで受けた場合はどうなるの?」
その矛でその盾を突いたらどうなる、という矛盾の故事成語みたいな話だ。指摘しようと口を開いた瞬間、夜介のセリフが被せられる。
「矛盾の故事成語じゃないけど」
……くそ、発想が被った。
「……さぁ」
何となく悔しさを覚え、あたしは答えないことにした。夜介は若干不満そうな顔をする。
それを無視して、さっさと終わらせてしまおうと、早口に説明を続ける。
「ストレンジは奪取、という括りだけど……あるべきものをないように見せたり、実際は色んなことができるみたい。これもよくわからない枠。大して外部世界への力が強いわけじゃないから、認識に作用する系なのかも」
「それは例えば、誰かの記憶を改竄したり?」
「記憶? そういう使い方は聞いたことないけど」
「そっか」
何かを知っていそうな口ぶりだったのに、表明することなく引き下がる。
「アザレアさん?」
「なに」
「何か、抽象的だよね、フレーバー。炎とか水属性、と言われたほうがわかりやすいのに」
「あたしに言わないでよ」
「三世代あるっていうのも、ファイア、ファイラ、ファイガでいける。最近はファイジャってのもあるんだっけ?」
「なにそれ、魔法?」
「うん。ファイナルファンタジー。知らない?」
知らないよ。
どうもこの男、ゲームオタクらしい。無視して進めてしまおう。
「まぁ、いいや。じゃあ最後ね。【ボトム】は消失、ってことだけど、あんたの方が詳しいかな」
「え?」
あたしは水仙から、六郷夜介には【ボトム】適性があるということを既に聞いていた。自分自身の能力【ダウン】の上位、第三世代目。基礎性能の時点で上位に位置するという羨ましさを置いても、それがどのような効果を持つ能力なのか純粋に興味があった。
「第三世代フレーバーはレアだからよく知らないって言ったでしょ。【ボトム】を使うと何が出来るのか教えてよ」
「……何が出来るというか、どうなるかしか知らないけど。それでよければ」
夜介はそう言うと、銀のリング、ATPI を腕から外す。
瞬間、彼の姿は白黒の世界から消え失せた。元の世界に移動したのではない。単純に、そこから存在が消失した。
「……え、消えた?」
「一応、こっちの世界には居る」
何もいない空間から声がする。確かにそこにいるが、あたしの眼には映らない。
というか、リングを外しているということは、ATPI 無しに並行世界へ干渉できてる――ってことか。さすがチートの血族。
「姿を消して並行世界に入れるってこと?」
「たぶん」
「へぇ……よくわかんないけどすごい、のかな」
これは隠密行動やらなんやらに、都合がいいのかも知れない。
リングを改めて着けたのか、再び夜介の姿が現れる。
「でもかくれんぼだけやってるわけにもいかないでしょ?」
「うん。実際、動いたら音は聞こえるし、見えないだけで身体はモノに触れるみたいで、水仙に助けられなければ透明なまま捕まってたと思う」
「はー……なさけな」
何というか、案外ショボい。
この調子だとアップ系列第三世代の【トップ】も、創造とか言いつつ名前詐欺かも知れないと思う。
あたしたちのボスである比良坂が、六フレーバーの体系を作ったという。しかし改めて説明してみても、あたしが大して各フレーバーの意味を知っているわけではないと思い知らされる。
いずれにしても……座学はそんなに好きじゃないから、あとは実践かな。
「じゃ、練習してくよ。六郷の人間は全部使えるらしいけど……とりあえず【ダウン】覚えましょうか」
「なんで?」
「盾を張れれば、とりあえずかくれんぼよりマシに、即死しないで身を守れるでしょ? あたしが使えるから教えやすいってのもあるけど。あと,あんたが適性あるっていう【ボトム】と同系列だから習得の効率がいいと思う」
水仙はおそらくその観点も加味した上で、あたしにトレーニングを頼んだはずだ。そもそも六郷の人間でなくても、世代が上のフレーバーは、低い世代の上位互換らしく、ある程度の適性はあると聞く。
こいつがあたしの上位互換と認めるのも癪だが、教えてみて出来なければ出来ないで面白い。
◆◆◆◆◆
結局、その日のトレーニングは、ほとんどの時間を夜介の力の性質を把握するために費やした。
ATPI による並行世界介入は、六郷の血筋がもともと持っていた力を六種類に分類することで実現されたものと聞かされている。だから、六郷家の人間は何も使わなくともオールマイティーな能力を発揮するものかと考えていたのだが――実際、彼が習得することができたのは【アップ】と【ダウン】の基本のみであった。
両系列、矛と盾をひとりで使えるということ自体は、確かに常人では成し得ないことである。うまく立ち回れば攻守のバランスがよく動けるのかも知れない。
それでもそれぞれの力は、水仙とあたしには及ばない、非常に弱いものであった。
さらに、夜介が ATPI を外して姿を消している間は他のフレーバーを使うことができないらしく、相手から身を隠すとしても中途半端だ。
「いや……素養があることと技術として使えることは、まったく別物だと思う」
「イイワケしない」
あたしは意地悪い小気味よさを感じながら、夜介をからかう。六郷の血は思っていたほど万能ではなかったらしいことに、どこか安堵していた。
組織の所有する建物には簡易的な宿泊所が備え付けられている。夜介は充分な基礎を身に付けるまで、そこで寝泊まりすることを水仙から提案された。正確には、提案という名の強制であったようだが。
仕事がある、としばらくゴネていた夜介は最終的に観念したのか、会社に休暇を取る旨の連絡を入れていた。電話越しに上司に頭を下げる姿を見て、大人にはなりたくないと思う。
(そういえば……)
姉を【連合】から取り戻した後の、あたし自身の身の振り方を考えたことなどなかった。いまちょっと普通から道を外れて生きる17歳のあたしは、すべてが片付いた後に、この男と同じようになるのだろうか。そう考えると年齢を重ねることに嫌気が差した。
人差し指を折り曲げて、それを戻す勢いでスカートを弾く。指に触れるわずかな重みが、今しかない身体の存在を思い出させてくれた。
◆◆◆◆◆
当初のあたしに知る由もなかったが、夜介はどうやら、自衛の術を身に付ける以外に、この組織に身を置く目的があるらしかった。
「僕は、先生に会えると聞いてここに来たんです。軟禁されるためじゃない」
「人聞きが悪いことを。我々もあなたを招き入れることにある程度のリスクを負っているのですから、最低限、人並みの仕事をして頂いた後ですよ」
水仙との会話から推測する限り、彼は、組織のリーダーであるヒラサカから何かを聞き出したいらしい。夜介はヒラサカのことを先生と呼んでいて、どうやら旧知の仲であるようだ。あたし自身も最初に合った時以来、ヒラサカとは顔を合わせていない。この大学の中に拠点があるという以上、ヒラサカもどこか近くにいるのだろう。やはり不満そうではあったが、他に選択肢がない夜介は水仙に従った。
あたしたちは何週間かかけて夜介のトレーニングを進め、そのあと仕事に駆り出す予定だった。少なくとも、水仙はそのように計画していたようだ。
仕事で盾役になりがちなあたしは、早々に【ダウン】を習得して黒い盾を展開する夜介を見て、仕事の負担が分散されるかもという期待を持っていた。他人から向けられる敵意に最前線で立ちはだかるというのは、けっこう心や身体にストレスがかかるものなのだ。
悠長な考えだったと思う。
夜介を組織に迎え入れた時点で既に状況が動き出していたということに、あたしたちは――少なくともあたしは、まったく気が付いていなかった。




