十四歳、炎とともに僕の喪失は終わる
十四歳、炎とともに僕の喪失は終わる。
先生のファイナルファンタジーのセーブデータに追いついたことを悟ると、僕が脳内に作り出した仮想敵はあっけなく崩れ去ってしまう。そうして、歩みを止める理由はなくなってしまった。
ゲームのコントローラを置いた僕は、ようやく、父親の書斎の戸の前に立つだけの気力を集め終えたのである。
屋敷の奥の奥、本来柔らかな陽光の差し込むはずの大部屋が、父の書斎だった。その戸は閉ざされている。太陽にあたると紙が痛むからだと、母から聞いたことがある。その部屋に足を踏み入れるものは父以外におらず、父は食事と就寝時を除いて、いつもその部屋にいた。
僕が書斎の前に立ち次の一歩を踏み出せずにいると、部屋の中から父の声がした。
「――夜介か」
「……うん」
「入れ」
僕は操られるように、屋敷の中で最も重い戸を開いた。
父親の書斎は広く高く、あたりにはうず高く書類が積み上げられていた。父は紙の向こう側で椅子に深く腰掛けている。
僕はずっと、この父親の顔を直視して対話することを避け続けていた。
一対一で話をするのは、ゆかり姉ちゃんがいなくなって言葉を交わしたあの夕暮れの庭以来、実に四年ぶりである。僕の方から父に話しかけるのは、生まれて初めてであったかも知れない。それとも、物心付く前は僕も無邪気にパパなどと笑いかけていたのだろうか。
「……」
父は、無表情と沈黙で僕を迎え入れる。決意を抱いてここに足を踏み入れた僕は、早くも心が折れそうになっていた。なんとか、乾いた口を開いて言葉を絞り出す。
「研究に来てた、あの、ゆかり姉ちゃんがいなくなった年に……。覚えてる?」
「……」
父の沈黙を肯定と仮定して、僕は言葉を続ける。一度でも勢いを失うと、今にも回れ右をして部屋から逃げ出してしまいそうだった。
「父さんは、先生……あいつらを呼んだって言ってた。研究のためだ、って。だったら先生たちがいなくなったのも、何か知ってるんじゃないの?」
「……」
「姉ちゃんのことも諦めろって。じゃあやっぱり関係してる?先生がゆかり姉ちゃんを連れて行ったんだよね。なんでみんな言わないの?なんで忘れようと、見ないようにしてるの?どう考えても、そうなのに!」
気が付くと僕は叫んでいた。恐れていたはずの父に向かって、四年間テレビの画面にぶつけ続けていた怒りを吐き捨てていた。
父はただ僕の顔を見つめる。僕の怒りを受け止めているのか、それとも風が凪ぐ様子を、さらさらと眺めているだけなのか。たっぷり時間を置いて、肩で息をする僕が落ち着きを取り戻した頃、父はゆっくりと口を開いた。
「香の話、覚えているか」
「……?」
静かな父の言葉は、僕の切実な疑念に答えるものではなかった。
数えるほどしか記憶にない父の言葉は、いつもまわりくどく、何を言っているか理解できない。
「……うん。六のコウを統べるものが六郷だ、ゆかり姉ちゃんは優秀だった、って」
「アップ、ダウン、チャーム、ストレンジ、トップ、ボトム。これが六種の香だ」
「アップダウン……?え?」
「あの男は【ストレンジ】。最も非力で、最も難解、そして――最も厄介なフレーバーだ。お前には、ある種の時限催眠が仕掛けられていたのだろう」
フレーバー、ストレンジ、じげんさいみん。
父の言葉はいつも、何を言っているのか理解が出来ない。いや……僕とは根本的に、世界を観測する視界が異なっている。
「あの男がいた夏の間、お前はあいつと何をしていた?」
「ゲーム……ずっと、ゲームやってた」
「そしてこの四年間、お前は?何故、離れの娘が消えたあと、すぐ私のところに来なかった?」
「ゲーム、を……それを解かないと、越えないと、倒さないと、さ、先に進めないって……」
僕はどうしてそんな思考に陥ってしまったのだろう?
そして家族は先生のことを、必要最低限しか覚えていなかった。ゆかり姉ちゃんの失踪との関連性を指摘する者もいなかった。僕はそれに違和感を覚えたが、独りよがりの自己満足に閉じこもってしまった。まるで奇妙な香りを嗅いで、意識が朦朧としてしまったみたいに。
「お前が私のところに来たということは、あの男の【ストレンジ】が解除されたことを意味する。そしてあの男、頭脳だけは本物の中の本物だ。タイミングを見誤ることはあり得ない」
「か、解除……?父さん、僕は」
自分が信じられない。僕はちゃんと、僕が考えようとしていることを、僕の意志で考えているのだろうか?
「離れの娘というサンプルがあるとはいえ、まさかほんの四年とはな。――つい昨晩、出たばかりの論文だ」
僕の記憶にある限りもっとも饒舌に語る父は、ぱら、と手元の紙を持ち上げて、僕に示す。
「著者名がハイゼンベルクとは、ふざけている」
その紙には、おそらくは英語でびっしりと文字が書かれており――所々に複雑な記号が見えた。あの夏、スマブラをやりながら先生が大学ノートに書き込んでいた沢山の数式に似ているような気がした。
「離れの娘、研究材料が奴らの手に落ちた。決定的な論文が発表され、理論は衆目に晒された。大多数の人間にとっては意味のない情報だろうが、充分に準備ができている連中には伝わる。六郷の研究も終わりだ」
「論文……。先生が、ゲームしながら何か書いてたのって、ゆかり姉ちゃんを」
「そう、研究していた。私たちが持つ、六種の香を統合する力。それは、人間をこの世界ならざる場所に連れて行く可能性を秘めている。未熟な人間がその扱いを誤ると、ただ消えるだけだがな」
「消える、って、もしかして……六郷の『神隠し』は」
「六郷の子供が消えるのは、香を適切に扱えずに世界の位相がずれてしまったためだ。夜介、お前が香を扱えるようになるまで引き延ばせればと思ったが……私たちにはもう時間がない」
ずずず、と父親は立ち上がり、僕の方にゆっくりと足を運ぶ。四年間で背がずいぶん伸びた僕よりも、さらに頭ふたつ分ほど高いように感じる。
「六郷の研究は終わり、私たちはもう邪魔者でしかない。じきに流れが変わるだろう。だが夜介、いまはまだ――お前は幼い」
父――六郷宗弦は僕の前に立ち、表情に何も浮かべないまま、僕の頭の上に手をかざす。
「六郷はすべての香を扱うことができるが、ある程度の適性がある。私とお前のフレーバーは【ボトム】。だから、夜介、私は一時的にお前を無くすことができる」
僕の意識は途絶える。
◆◆◆◆◆
次の僕の記憶は、炎の中で焼け落ちる六郷の屋敷である。
その夜、僕が目を覚ますと、かつてゆかり姉ちゃんの部屋として使われていた離れの一室だった。
(あれ……?)
おかしい、僕は母屋の自室で眠りについたはずだ。……いや、ほんとうにそうだったか?父親と、書斎で話をした。何を……何を話していただろうか。そしてその後、僕はどうしていたのか?
頭に靄がかかったように、何かが無くなっているように感じる。
そうした疑問は、窓の外で燃え落ちる我が家という圧倒的な現実の前に霧散した。
凶暴な橙色は無遠慮に暴れまわり、幼い僕が身長を測った柱や庭の松の枝を舐め、崩れる屋根の重みと打ち付ける熱風を目で感じた。
僕は、離れの部屋で呆然としているところを消防士に救助される。
そして、六郷家の人間が僕を除いてすべて焼け死ぬほどの、大火事が起こったことを知らされる。その夜、夜中に母屋で出火したこと、火の回りが早く、消し止められた時には家族は皆手遅れであったという事実を聞かされることになる。
幸いにして離れまでは火は燃え移らなかったが、そこで寝泊まりしていたはずの叔父夫妻も消えていたという。六郷のしきたりに則れば、叔父夫妻もゆかり姉ちゃんと同じように死人として扱われるに違いなかった。
結局、家族の死体は見ていない。
僕を除く一家全員の葬式など、やる意味はなかった。
葬式が別れを惜しみ死者を見送るための儀式だとすれば、むしろ僕の方が、六郷の家から見放され送り出される側のように感じた。こうして六郷の家は無くなったのである。
彼らは、僕のために儀式を行っただろうか。
あとのことは、特筆すべきものでもない。僕は何か重々しい話を投げかけてくる業者やら代理人やらに、すべて言われるがままに判を押してやることにした。すると僕は児童養護施設で暮らすことに決まり、慣れ親しんだ故郷を離れることになる。
そのようにして、炎とともに僕の一連の喪失は幕を閉じる。
あれ以来、町には帰っていない。




