ファイナルファンタジーが僕の敵であった
ファイナルファンタジーが僕の敵であった。
僕はゲームを起動して、めちゃくちゃに強いファイナルファンタジーのセーブデータを眺めていた。レベルを最大まで上げ、すべてのスキルを習得し、レアアイテムをコンプリートし、裏ボスを倒して、ありとあらゆるやりこみ要素をクリアし尽くした、伝説のようなデータだ。
僕のデータではない。先生のものである。
主人公には、先生のものらしき名前が付けられていた。先生のファーストネームは覚えていなかったが、最初の方に聞いたような、聞いていないような気もする。少なくとも、先生は確かにゲームキャラに自分の名前を付けてしまうような大人だった。
◆◆◆◆◆
――ゆかり姉ちゃんと先生が六郷の家から消える前。
先生は僕にメモリーカードを手渡した。……いや、手渡してはいないか。ヘッドセットを付けたまま、あぐらをかいた僕の足の間に、ぽんとメモリーカードが投げ込まれる。
「もっとけ」
「なにこれ?」
「ファイファンのデータ。俺が最強まで上げた」
「ファイファン?」
耳慣れない言葉に僕は聞き返す。ヘッドセットのスピーカーは、先生の小さな舌打ちを拾う。
「は?お前はあれか、エフエフっつー派閥か?ふざけんなよ」
先生は不機嫌な口調で僕を罵倒し始めるが、彼が怒りからそういう喋り方をするのではないと、僕はもうわかっている。
「ああ、ファイナルファンタジー。なんで?」
「は?至高だろ」
ゲームのチョイスに疑問を呈したわけではないのだが。
結局先生は僕にそのメモリーカードを手渡した理由を説明することなく、僕の前からいなくなる。先生に属するすべては、ゆかり姉ちゃんと共にすべて消え去ってしまった。
ただ一つ、僕の手元に残されたセーブデータを除いて。
それは先生の、そしてあの夏に失われていったものたちの、唯一の記憶であるように思われた。
◆◆◆◆◆
先生たちの足取りは杳として掴めなかった。
ゆかり姉ちゃんは死んだことになり、終わったものとして扱われ、そしてその喪失に紛れるように「先生」に関するすべても忘れられようとしていた。
葬式が終わって何日かして、僕は母に聞いたことがある。
「先生たちって、どこ行ったか知らん?」
「先生?」
「あの、白衣着てた」
僕は「先生」という呼称が、ゆかり姉ちゃんと僕、そして先生たち本人にしか通じないことを忘れていた。とりあえず白衣で補足する。
「ああ……さぁねえ、いつの間にかおらんようなってたけど、お父さんとのお話でそうなったんちゃうかね」
僕は母に聞いたことを失敗だと思った。母はいつも自身で考えるということをしなかったのだ。それでも、ひとつ聞いておきたいことはあった。
「ゆかり姉ちゃんがおらんようなった日に、一緒に消えとったやん?」
「そうやっけ?よう覚えとらんわぁ」
やはり、失敗以外の何物でもなかった。
父親に従い続けるだけの母とは違い、祖母は、先生たちの食事を毎日作っていた。それを僕とゆかり姉ちゃんが先生たちの「研究室」に届けに行くので、炊事場で先生の様子についてちょっと会話をすることもあった。
それでも祖母に聞いても、同様に有益な情報は得られなかった。
「おお、研究しょった東京の方な。見えんようなったけど……何も聞いとらんで」
残るは叔父夫妻である。しかしながら、娘を、そして僕の知らない遠い昔に息子を『神隠し』で失った叔父夫妻。十歳の子供とはいえ、さすがに余所者のことを彼らに聞くような無神経さを、僕は持ち合わせていなかった。
――『神隠し』。
葬儀の参列客はそう言っていたが、ここは『日本昔ばなし』でもなければ『洒落怖』でもない。
ゆかり姉ちゃんは先生たちに連れ去られたと考えるのが普通ではないか。
僕は子供ながらに、その可能性が大人たちの口から一切出てこないことを不思議に思い、不審に思い、そして――次第に確信へと変わってゆくのを感じていた。
◆◆◆◆◆
学校に通い、勉強をして、友だちと遊ぶ。表面的には穏やかな日常を取り戻したように見えて、子供の僕の心は、薄まってゆくゆかり姉ちゃんの記憶にずっと恐怖していた。恐怖を感じなくなることにすら恐怖を覚えていたように思う。
そんな心の鎮痛剤として僕は荒唐無稽な設定、ひとり遊びにすがりつく。
すなわち、唯一残された最強のセーブデータを仮想敵として、ゆかり姉ちゃんに繋がる手掛かりとして、立ち向かい続ける。僕は僕だけの中にそうした設定を作り上げた。そうして挑み続けている限り、少なくとも世界の中で僕だけは、ゆかり姉ちゃんを忘れていないことを確認できた。
あのデータは「先生」の課したクエストである。消えたゆかり姉ちゃんを救い出すためには、先生の残した宿題をクリアしなくてはならない――と。
英雄的で自己満足で馬鹿げたそのクエストに、僕は何年も取り組んだ。先生のデータはテレビの青白い光を伴って、僕の前に立ちはだかり続けた。
ところで――僕が目をそらし続けていたのは、ゆかり姉ちゃんの消失だけではなかった。僕は「先生」の行方を家族に尋ねる時も、ある人を意識的に避けていた。
すなわち、父である。
あれは死んだと、父は宣言した。あの男どもを呼んだと、血のような夕日に染まりながら、父は言ったのだ。
だから僕は父に先生の行方を聞くべきであった。……にも関わらず、僕はそれと対峙することに恐怖していた。
弱い僕は、ファイナルファンタジーのやりこみに逃げた。いや、逃げているわけではない。ゆかり姉ちゃんの手掛かりを知る先生という壁に、立ち向かっているのだ。
無意識に自分を正当化しながら、セーブデータに残されていた記録に自力でたどり着く頃には、四年の月日が流れていた。




