丘の上のあの人
僕は、風の吹きすさぶ丘の上にのぼっていた。そこに、いくつもの墓があるのを見て、間違いない、ここだ、と思った。他には、汚れた木造の寺がひとつあるだけだった。
丘の上に立ってみると、青々とした海がどこまでも広がってゆくところがはっきりと見えた。太陽は眩しかった。悲しいほど眩しかった。それから、木陰となったところにある墓地に、人が立っているのが見えた。
それは、女性だった。僕はこの人に会いに来たのだ。はるばるこんなところまで来たのはそのためだった。彼女は、何も変わりなかった。出会ったあの頃と同じような紅の唇、色白な肌、ふたつの黒い瞳がこちらをじっと見つめていた。
「久しぶりだね」
僕は、そう呟いて、彼女をまじまじと見つめた。彼女は何も答えなかった。
卍
出会ったのは、大学の教室だった。僕は、彼女のことは前から知っていたけれど、話したことはなかったし、話したところで何が始まるとも思っていなかった。
ただ、仏画の講義の折、鉛白の絵の具に、膠が足りなくなったので、ひとりで困っていると、無言で膠の入った瓶を手渡してくれた女子生徒がいた。笑顔で「ありがとう」というと、少しばかり上ずった声で「いえ」と言った後、ぱっと顔が明るくなったと思うと、幸せそうに微笑んだのが印象的だった。
その後は、なぜか、視界の中にその女子生徒が入り込んでくる機会が増えた。なにか、自分のまわりをうろうろしているので、なにか違和感を感じたが、それ以上は何も思わなかった。
その女子生徒は、友だちらしき人に、使い慣れていなそうなため口で、いくぶん、ハイな口調になり、会話をまわしたり、やけに元気が良くなったりして、声も大きくなった。僕にとって、否応もなく存在感が増していった。
ある日、僕が他の女子生徒と喋っていた後、ちらりと横を向くと、その女子生徒がこちらを少し苦しげで不快そうな表情で睨みつけていた。目があうと、彼女ははっとした様子で、慌てて視線を外した。僕は、謎めいた恐怖を感じたが、なんだか、よく分からなかった。
それ以降は、この講義中、やけに視線を感じるようになったが、女子生徒を見ると、別にこちらを見ているわけでもなさそうだった。ただ、いつも横顔があるだけだった。僕は、この時、視線の端で見るという技を知らなかったので、気のせいだったか、と思った。
それから、体がぶつかることが多くなった。振り返るとそこにいるので、困ることも多くなった。広いテーブルを使っているのに、ふたりで並んで絵を描いているのが、どうも変な気がした。
「これ、本朱ですか?」
と、その子が、上ずった声で、本朱と書いている瓶を指差したので、
「そうです」
と僕は答えた。見て分かるだろう、と思った。
「………」
その子は、ちょっと困った様子だった。
そのうち、この子は僕と友だちになりたいとかもしれないと思うようになった。そこで、僕からも話しかけてみることにした。
「それ、何を描いているんですか?」
「えっ、何を……何も描いていません。あっ、違う。これですか? これは毘沙門天です……」
とその子が真顔で、慌てた口調で答えるので、僕も反応に困って、
「へえ、そうなんですか……」
と答えた。
僕は、相当、鈍感な人間らしく、このようなことがあっても、彼女の好意に気づかぬまま、月日が過ぎていった。
卍
しかし、人の運命は計り知れない。この女子生徒との交際は、思いもよらないことがきっかけで始まった。僕も馬鹿ではないのである。このような一見、頓珍漢な行動も積もれば、さすがに周囲が感づく。それで、変な噂になって、かえって、本人が気づかされるということがある。
付き合い始めてみると、たいへん、気の優しい子で、毎日が楽しかった。大学を卒業するまで、幸せな日々が続いた。
ところが、彼女は卒業後、どこか遠いところに引っ越すことになったという。
ある日、秋風の吹く土手にふたりで座っていた。
「どこに行くの?」
僕は、寂しさを隠しつつ、素っ気なく尋ねた。
「宇宙へ行くの」
「そんなわけあるか」
「うそ。四国に引っ越すの」
「そりゃ、遠いね」
「実家だからしょうがないの」
「地元に就職するんだ?」
「そうなんだ」
「もっと悲しめ!」
僕は、悲しむ彼女に思いきり蹴られて、土手を転がり落ちた。
僕のなかでは、遠距離恋愛になるのなら、どのみち上手く続かないだろう、という悲観的な予感があった。そのため、なにか、これが大学の卒業が関係の終焉だと思えてならなかったのだった。
卍
大学四年の卒業式の日に、僕は彼女に言った。
「電話もかけるし、ラインも送るから……」
「分かった。約束ね。きっと送ってね……」
と、遠距離恋愛なら当たり前の約束をして、別れた。この時、僕はもう永久に合わないのだと決まったような悲しみが込み上げてきたのだった。
卍
そして今、僕は丘の上の墓場に立っていて、彼女の目の前にいる。僕はもう一度、
「久しぶり」
と呟いた。
彼女の瞳は、僕の方を見つめたまま、やはり、返事はなかった。
卍
僕は、この卒業式が終わり、彼女と別れた後、帰り道をひとりで歩いていた。これで、もう会えないのだろうか、僕は、嫌な予感がしていた。別れた彼女は、四国へ行ってしまう。
僕はそんなことを考えていたせいだろうか、帰り道、後ろからトラックが迫ってきたのを感じた。振り返って、わっと声を上げた。トラックが僕の方に飛び込んできたのだ。世界が逆さまになった。タイヤの匂いがして、静寂と騒音が聞こえたり、聞こえなかったりして、自分の声が宙を飛び続けた。
……そして、目の前が真っ暗になった。
気がついた時、僕は布団の中にいた。僕が目を覚ますと、母親が泣いて喜んでいた。
「……無事だった」
その声が、聞こえた時、僕は助かったんだ、と思った。
卍
それからというもの、僕は、自分の部屋から出て、電話の前に訪れるようになった。そして、彼女と連絡を取ろうとし続けた。しかし、彼女と連絡を取ることはできなかった。スマホをいじったり、ラインも送ることもできなくなって、日々、会えない悲しみが募っていった。
手紙なら書けるのではないかと思った。そこで、僕は、紙に「また会いたい」と書いて、彼女に送った。返事が来ることはなかった。
彼女からの返事は来なくなってしまった。その理由は、分からなかった。彼女の身に何かが起きたのではないかと思った。僕は、悲しみに包まれた。
僕は、事故の後も毎朝、洋服を着ると、それまでと変わらない気持ちで、大学に通った。彼女がいなくなったというだけで、一年前と同じような講義は坦々と続けられているし、それがおかしいという気もしなかった。講義室の端に座って、ただ、講義を見つめている。一年前と同じように、僕はノートにメモをした。
卍
彼女が四国からこっちに来ると母親が喋っているのを耳にした。その場所がどこなのか、僕は分からなかった。ただ、墓のある場所だということだけだった。僕の記憶の中にひとつだけ、ある場所が思い当たった。そこに行けば、彼女に会えると、そう思った。
卍
僕は、風の吹きすさぶ丘の上にのぼっていた。そこに、いくつもの墓があるのを見て、間違いない、ここだ、と思った。他には、汚れた木造の寺がひとつあるだけだった。
丘の上に立ってみると、青々とした海がどこまでも広がってゆくところがはっきりと見えた。太陽は眩しかった。悲しいほど眩しかった。それから、木陰となったところにある墓地に、人が立っているのが見えた。
それは、彼女だった。僕はこの人に会いに来たのだ。はるばるこんなところまで来たのはそのためだった。彼女は、何も変わりなかった。出会ったあの頃と同じような紅の唇、色白な肌、ふたつの黒い瞳がこちらをじっと見つめていた。
「久しぶりだね」
僕は、そう呟いて、彼女をまじまじと見つめた。彼女は何も答えなかった。
僕はもう一度、
「久しぶり」
と呟いた。
彼女の瞳は、僕の方を見つめたまま、やはり、返事はなかった。
それから、彼女は一言呟いた。
「綺麗な海……」
僕は、はっとして、後ろを振り返った。丘の下に、青い海が広がっていた。きらきらと太陽の光を受けて輝いていた。彼女が見つめていたものはこれだった。僕じゃないんだ。そう思った時、自分が何者か分かった。涙が込み上げてきた。その姿も、彼女には見えなかった。僕はわっと叫んだ。そのまま、海へと走った。丘の下まで行って、僕はしゃがみこんだ。
あの日、もしも、トラックが僕を轢かなかったら、電話をかけることも、スマホでラインを送ることもできた。しかし、今の僕はそれに触れることもできない。それどころか、とっくに卒業したはずの大学の講義室の端に座って、講義を聴いている。おかしいじゃないか。手紙を書いても、誰にも届くことはない。ずっと僕は、ひとりぼっちになってしまったのだ。僕は、本当に助かったのか。どうして、今まで、おかしいと思わなかったんだろう。
ところが背後に、気配を感じて、振り返ると、彼女が立っていた。彼女は、僕が見えているのか、見えていないのか分からない、悲しげな笑顔を浮かべると、
「ひとりじゃないよ……」
と言った。