MONA高校のとある恋
まだまだ夏の暑さを引きずる今日、MONA高等学校は相変わらずお祭りムード一色だった。
文化祭二日目。実行委員のおれは体育館の放送室にいた。となりでは佐藤香奈がマイクを片手に次の演目の紹介をしている。有無も言わさず強引におれを実行委員に組み込んだ張本人だ。しかしまあ、実行委員になれたのは僥倖と言える。おれと佐藤は放送室の密室で二人きり。騒々しい校内をあてもなく歩き回るより疲れないし、ここは実行委員でないと休めない場所でもある。なにより、誰も入れない場所で佐藤と二人きりという状況が青春を大いに感じさせる。春機発動期真っただ中の高校二年生であるおれにとったら、なかなかに気分がよいものだった。
階下にあるステージでは、クラスメイトの目立ちたがり屋たちがダンスを披露し始める。これが終わればひと段落、体育館での催しは一時間ほど休憩となる。
「ねえねえ」佐藤はデスクチェアのうえでくるくると回りながら長い黒髪をなびかせる。「休憩タイムになったら三年四組のクレープ屋いかない? なんかすっごいらしいんだよ」
「なんかすっごいじゃ、なにがすごいのか想像もできないぞ」
「だから行きたいの。行こ。はい、決定」
佐藤は勢いよく立ち上がっては種目を終えた体操選手みたいに両手を上げる。はい、決定。いつもそうだ。二年に進級し隣同士の席に決まった瞬間から、おれは決定権というものを剥奪された。佐藤の思いつきや誘いを断る力も勢いも持たないおれは、ただただ言われるがままに振り回されるしかないのだ。隙だらけの佐藤から逃げ出すことはいつだってできるが、そんな気は毛頭ない。居心地よく感じているし、なにより一緒にいたいと思えるやつといれるなら、過程はなんでもいいのだ。
館内に響くBGMが終盤に差し掛かったところで放送室の扉が力なく開かれる。ひょっこりと現れたのは、小山田ゆかりの見慣れた顔だった。
「ゆかりー遅いよー」
「ごめん、ダンス見ちゃってたよ」
小山田は八重歯が特徴的な可憐女子である。笑った時に覗く歯がとてもチャーミングでプリティでエクセレントと言える。佐藤とおれのクラスとは別だが、一年生の時に佐藤が同じクラスになったことで親しくなり、その佐藤に振り回されるがゆえに、おれも小山田とすっかり友達になっていた。佐藤がいなければおれと小山田が関わることすらなかっただろう。
「もうすぐ休憩だから、さっき言ったクレープ食べ行こ」
「えー、でも、わたしは行かないほうがいいんじゃ……」
「なんでよ!」佐藤はやかましい声をあげながらおれを指さす。「こいつと二人きりでクレープなんてやだよ!」
なんて失礼なやつだ。
小山田は時折、――いや、最近では頻繁に――自分を除け者にして佐藤とおれを二人きりにさせたがる。優しき心を持った小山田の気遣いは大変嬉しいが、なにも自分を邪魔ものにすることはないだろうと思う。なによりおれは、この三人で行動をともにしていくのが楽しいと思っている。遠からずそれが崩れる時はくるだろうが、その時までは大切にしていきたい。
BGMが止み、かわりに拍手が聞こえてきた。佐藤は小山田と話すことに夢中だから、代わりにおれがマイク向かって語り掛ける。ここで一時間の休憩を挟みます。ご興味のある方は一時間後にぜひいらしてください。次のプログラムはMONA高恒例の『僕の私の話を聞いて!』です。繰り返します――。
『僕の私の話を聞いて!』は我が校恒例の演目だ。詳しい事は、特にない。とにかく体育館のステージに立候補した生徒が立って言いたいことを言う行事だ。去年の文化祭の時にチラッと覗いたが、体育教師白木の筋肉が暑苦しいとか、物理のテストが残酷なほど難しかったとか、先輩好きです付き合ってくださいとか、そんな感じだった。目立ちたがり屋の激しい自己主張、という捉え方でたぶん問題ない。ここで愛の告白なんてできたらみんなが恰好がいいと言うだろう。公衆の全面で告白なんてしたら相手も勢いで頷くだろうし、現に『僕の私の話を聞いて!』で告白をしたら必ず結ばれると噂されている。もちろん、おれにはそんな勇気も勢いもない。だから今年も来年も傍観者で終わる予定だ。
クレープは本当になんかすっごかった。佐藤と小山田で一個、おれで一個の計ふたつ頼んだのだがすぐに後悔した。特盛のホイップクリームとマスタードにキャラメルシロップとブルーベリーソースがこれでもかと注がれ、最後に大量の板チョコが浴びせられる無残な姿をしていた。まるで公開処刑された重罪人である。あまりある糖分たちが生地に包まれているというより、生地を羽織っていると言ったほうが適切だ。現に片手持ちができるよう紙にくるんであるのではなく、紙皿に乗せられた状態で渡された。もはやクレープと呼称できる代物なのかも怪しい。教室の片隅で食らいつくも、三口目で吐き気と眩暈と胃もたれに襲われることとなった。
佐藤も早々に敗北するなか、小山田は飄々とクレープを食べ続けていた。おれも佐藤も無理をするなと諭したら、小山田は莞爾な笑顔を披露しながら「もらっていい?」とおれのクレープを指さした。佐藤とは対照的にいつもおっとりと陽気な性格をしているのだが、腹のなかには化け物が潜んでいるようだ。まえまえから甘党なのは知っていたが、よもやこれほどまでとは。
クレープを綺麗に片づけたあと、佐藤が名誉挽回とばかりに射的を催す隣のクラス入っていった。教壇に置かれた1から9のパネルにお手玉を投擲する仕様だ。指定された数字に六つのお手玉をすべて当てることができたら一等賞らしい。
「勝負しよ」
佐藤がおれに宣戦布告した。小山田のほうへ視線を向けると、両手のひらを向けてやってきなさいと示した。小山田は参加する気がないようだ。おれはワイシャツの袖をまくる。いくらちゃっちい射的とは言え、男として女子の佐藤に負けるわけにはいかない。
一投目、9を指定された。一番右下のパネルめがけて投擲する。
「あ」
と言った時にはすでに遅し、すっぽぬけたお手玉はあらぬ方向へ飛んでいく。すぐさま隣に目を向けると、佐藤は楽々9のパネルを落としていた。投擲後、「どんまい」と顔の右半分だけで笑われる。ちくしょう。
二投目、2を指定されたおれたちは同時にお手玉を投げ、双方ともが当てる。続けて三投目、四投目、五投目も無事に成功。腹立つことに佐藤も完遂させていた。最後の六投目をおれが成功させたとしても、勝つことはできなくなった。よくて引き分けだ。
まずはおれからお手玉を投げる。放物線を描いて、指定された3を落とすことに成功する。二等賞の景品獲得だ。あろうことか三年四組が販売するクレープ引換券を渡される。最初から見物していた周囲の生徒数人が小さく拍手し、それにつられた小山田もささやかな笑顔と同時に拍手を送ってきた。やめてくれ恥ずかしい。
「さ、これであたしであんたの負けが決まるわけね」
「せめて潔く殺してくれ」
佐藤は野球投手のように大きく振りかぶる。おれにとどめを刺そうと気合十分なようだ。こういうことをすれば失敗するのが世の摂理だが、おれには佐藤が見事成功するビジョンしか見えなかった。こいつはそういうやつだ。
佐藤は勢いよく右手を振るう。弾丸のように飛んでいったお手玉は見事、3のパネルを貫いた。さっきよりも大きな拍手が響く。こいつはあらゆる空気を自分に染める。おれ自身抱いていた色も、すっかり佐藤に染まっていた。
一等賞の景品はクレープ引換券だった。おれたち三人は一緒になってあきれ返る。完膚なきまでにきれいに物事を片づけ、最後の最後で落とす。佐藤は、そういうやつなのだ。
その後、三人で校内を巡りひとしきり文化祭を楽しんだ。クラスメイトと廊下ですれ違うとひゅーひゅーとはやし立ててくる。モテモテだねえ、と。佐藤は顔を赤らめながら否定して、小山田はいつの間にかクラスメイト側に立って優しく微笑むのだった。あっという間に休憩時間は過ぎ去った。なに、休憩なんてどうでもいい。ただ三人でいれれば、おれはそれでいいのだ。
体育館に戻ると、一時間前とは比べ物にならない数の人でいっぱいだった。我が校恒例のイベントが開催されるとあって、みんな興味津々のようだ。ステージのど真ん中にはマイクがスタンドもなく置かれている。薄暗い体育館のなかキャットウォークからのサーチライトで照らされるマイクは、なかなかに雰囲気のあるものだった。
「さあ、仕事だぞ」
「まって」
放送室へ向かおうとしたおれを、小山田が引き止める。
「放送は香奈がやってくれるらしいから、一緒に見てようよ」
「放送は佐藤とおれの仕事だぞ?」
ばん、と背中を叩かれる。佐藤が満面の笑顔を披露していた。
「いいからいいから、あんたらはステージの真ん前で楽しんでなって」
そう言うと、佐藤はひとりでずんずんと放送室へと向かっていった。
「どういうことだ」
おれは残った小山田に訊く。小山田はそれに答えることなく、困ったように目を細めて首を傾げた。
違和感。いつも三人でいたおれならわかる不自然さ。普段の小山田はおれと佐藤をふたりきりにさせたがる。普段の佐藤は気遣いなんて放り投げておれを引きづりまわす。おかしい。なにかが起きようと……いや、なにかを起こそうとしている。それだけはわかった。
体育館のスピーカーから佐藤の声が響き渡る。お待たせしました! みなさんお待ちかね『僕の私の話を聞いて!』を始めます!
待ってましたと言わんばかりの歓声と喝さいが巻き上がる。小山田はおれのシャツの袖をつまんで「ステージ前に、いこ?」と囁いた。どきり、とおれの心臓が一度だけ跳ねる。
「このイベント、小山田も参加するのか?」
「ううん。わたしにそんな勇気ないよ」
「じゃあ、佐藤は?」
しばしの沈黙。小山田は斜め上を見ながら頬を掻く。
「うーん、なんか、やるらしいよ」
やっぱりそうか。おれの予測は正しい。ここまできて察しがつかない男は美少女がたくさん出てくるライトノベルの主人公ぐらいだ。人を掻き分けステージ前まで移動するなか、どうするべきかを考える。
こうなったら、いままで通り三人でなんて難しくなる。佐藤は自分の気持ちが吐き出せてすっきりするだろうが、おれや小山田はどうだ。たしかに好意をもたれるのは嬉しい。こんなおれのことを好いてくれるなんて感激の極みだ。でも、今はそういうのを求めていない。三人の関係が崩れることが嫌なんだ。小山田はどうなんだ、と後ろを振り返る。華奢な小山田が人ごみに飲まれそうになっていて、反射的に手を伸ばす。小山田の手の温もりがおれの腕を通っていく。小山田はこれでいいのだろうか。ひっそりと身を引いて、おれと佐藤が結ばれたとして、それで嬉しいのか。
腕を引っ張る。人の隙間からするりと抜けて、おれと小山田が密着する。
「なあ、いいのか」
おれを見上げる小山田の表情がどこか寂し気に感じた。悲しそうに目をふせて、小さく頷く。
「いいんだよ、これで」
ぎゅ、と小山田の握る手に力が込められる。その温もりが心臓まで伝わってくる気がした。
ステージ前に行きつくころには、すでに始まっていた。見覚えのある先輩がステージで愛を叫んでいた。ひゅーひゅー、とどこからか口笛が聞こえる。体育館の後方で女子の返答が響き渡る。告白成功。名前も知らない先輩たちが結ばれた瞬間である。
その後も数人の生徒が順番にステージへ上がり想いを叫ぶ。三年生が愛の告白をすることが多かった。ときおり笑いをとるためだけにステージに立つ人もいた。
つぎで最後になります。佐藤の声が聞こえた。最後は、わたくし実行委員である佐藤香奈で、しめさせていただきます。快活な宣言の後、佐藤が舞台袖から現れる。拍手喝采。こいつは先輩後輩関係なく交友が広い。だからこれまでにないほどの盛り上がりをみせていた。
佐藤はマイクを拾い上げて、あ、あ、とテストする。そして、「告白します!」と高らかに叫んだ。場の雰囲気は一気に盛り上がる。佐藤の顔は普段からは想像できないぐらいに赤く染まっていた。
おれのなかで、葛藤が生まれる。
佐藤は勇気を振り絞ってステージに立つことに決めた。それを蔑ろにすることができるのか。いつも佐藤の意向に問答無用で振り回されてきたおれが、ここで反旗を翻すことができるのか。どうするのがベストなのか考えろ。ここはおれにとって大切な時だ。三人でどうしていきたいのか考えろ。
不意に左手の力が抜ける。握りっぱなしだった手を小山田が慌てて離したのだ。人が密集しているおかげで佐藤から見える位置ではなかった。それでも小山田は、佐藤のために手を離した。おれと佐藤が結ばれるのがベストなんだと、そう思って――。
おれは決意を固める。ちがう、それじゃだめなんだ。
このまま佐藤の想いのままに流され続ける事なんてできない。三人でどうとか、どれがベストだとか、そんなことを考えるべき時じゃない。どちらにしろ今までの三人の関係性はこれで崩れる。それならば、おれはおれの気持ちに、正直になるべきなんだ。
「あたしには、好きな人がいます!」
佐藤は叫ぶ。それに応じて館内中が盛り上げる。
先手を打たれる前に、行くしかない。おれはステップを使わずに直接ステージへ上がる。唖然とする佐藤からマイクを奪い、そして宣言する。
「おれは、小山田ゆかりが好きだ! 付き合ってください!」
一瞬の静寂。観衆全員がひとつの生き物みたいになって呆然としている様子だった。しかし、直後に生き物は唸りをあげて叫び始める。
ごめん、佐藤。おれは健気で可愛らしい小山田のほうを好きになってしまったんだ。
佐藤が目を吊り上げて、おれのマイクを奪い取る。悪いことをした。でも、これがおれの正直な気持ちなんだ。
「ゆかり、上がってきて」
マイク越しに佐藤は言う。小山田は泣きそうな顔をしながら、おそるおそるとステージへ上がる。佐藤は小山田におれと向き合うように誘導する。
「返事は、どうなの」
そう言ってマイクを向けた。またもや静寂に包まれる。一秒、二秒、沈黙が続く。これほど時間に対して長いと思ったことはなかった。静けさのなか、ただただ心臓の鼓動だけが骨を伝って脳を揺らす。
「ごめん、なさい」
震える声が響き渡る。想像通りの言葉だった。
「小山田。自分に正直になるんだ。なにも気にしないでさ」
おれは言う。小山田の心は優しさの塊だ。自分ではなく、親友である佐藤を第一に考えるのは小山田にとったら当然なのだ。だから、だからこそ、おれは言う。
「こうなった今、もう後戻りはできない。これまで通りにはいかない。だから、自分の気持ちを叫ぶんだ」
佐藤が真剣な眼差しをまっすぐおれに向ける。小山田の鼻をすする音がマイク越しに伝わる。決めるしかない。佐藤と小山田、ふたつの気持ちを向けられたおれは選択し、答えを口にした。だから小山田も答えを口にするべきなのだ。
「わたしは、わたしは、」
小山田の涙で滲んだ声が響き渡る。
「香奈が好きなの」
おれは頷く。わかってる。だからこそ苦しんでいるんだろ?
「香奈を愛してるの」
「は?」と思わず変な声が口からこぼれた。小山田は涙を落としながら続ける。
「ひかれるのはわかってる。でも、わたしは香奈を愛してる。ずっと一緒にいたい」
観客たちがざわめき始める。小山田は佐藤に身体を向ける。
「香奈、わたしと付き合ってください」
佐藤はマイクを持つ手を震わせてから、涙でぐしゃぐしゃになった小山田を抱きしめた。
「先に言われるなんてね…あたしもゆかりが好き。大好き。愛してる。こちらこそ、付き合ってください」
ふたりの答えがスピーカーからあふれ出す。おれは呆然と立ち尽くすしかなかった。
おれよりも早く観客が状況を理解したらしく、ざわめきが一気に歓声と拍手に飲み込まれていった。佐藤と小山田を祝う、大きな大きな喝采だった。
そっとステージから降りようとするおれの背中に、小山田は声をかけた。
「ありがとう。おかげで正直になれたよ。わたしまさか、香奈が告白する相手がわたしだったなんてわからなくて」
おれもまさかである。そんなことはおくびにも出さず、親指を立ててウィンクしてやる。世界中の散らばる哀愁を一手に背負っている気分だった。
香奈がマイク越しで語り掛けてくれたおかげで、おれはふたりの結ばれをドラマチックに仕立てた役として称えられた。佐藤と小山田に好かれていると思い込んでた恥ずかしい勘違い野郎、と後ろ指をさされることはなさそうで、そこだけはまさに僥倖と言える。
文化祭が終わってからも、おれたちは三人で過ごすことが多かった。時にはかつての小山田のようにおれが一歩身を引くことはあれど、変わったのはそれぐらいだ。いつものように昼食をともにし、いつものように放課後を迎え三人で帰路につく。遠慮していたおれの手をもぎとれそうな勢いで引っ張ったのは佐藤だった。これまでと変わらず、おれに決定権はないらしい。もちろん、おれの小山田への気持ちも変わっていない。
でも、そうだな。
いつも通りの帰路のなか、おれは歩む足を緩めてふたりの背中を眺める。夏の暑さはもうなくて、朱色に染まった太陽がふたりの間から顔をのぞかせる。
つぎにおれが佐藤の意向に反旗を翻すとしたら、その時は小山田を奪い去る時だろう。